真我における「一体化の側面」と「垂直の側面」/「過去断ちの法」10

2019-04-29

真我の最も分かりにくい側面「垂直の側面」

これまでいくつか真我の持つ側面を取り上げてきましたが、今回あらたにそのお仲間に加えたいのは、フレーズがちょっくら長くて分かりにくいかもですが次のようなやつです。

“私がその存在を認識しているものに対して「垂直な方向」にあるという側面”

どうです、やっぱり分かりにくいでしょ。ここに言う「垂直な方向」には特別な意味がありまして、「垂直な方向」は「垂直な方向」でも縦・横・高さからなるこの三次元空間に対する「垂直な方向」をそれは指しているのです。

だからそれは、例えばスクリーンのような二次元空間に対する「垂直な方向」と違って、誰にも思い描くことのできない「垂直な方向」なんですね。物理学の世界で言われている「余剰次元」という概念をご存じの方であれば、「そういうものもあり得る」と思っていただけるのではないでしょうか。

これまで取り上げてきた真我の持つ側面に前出のものをお仲間として加えると、真我の持つ側面には少なくとも次の七つがあることになります。

A・今に在るという側面

B・未来を見ないという側面(Aを細分化したもの)

C・過去を見ないという側面(Aを細分化したもの)

D・いかなるものにも依拠していないという側面

E・絶対的な無為の中にあるという側面

F・私がその存在を認識しているものと一つになっているという側面(「一体化の側面」と略称します)

G・私がその存在を認識しているものに対して「垂直な方向」にあるという側面(「垂直の側面」と略称します)

「一体化の側面」と「垂直の側面」を併せ持つ真我

FとGを隣り合わせになるように並べたのは、これら二つはワンセットにして考えた方が分かりやすいからです。これら二つはワンセットにして考えた方が分かりやすい理由は、「真我=見る意識」と私たちがその存在を認識しているものとの位置関係がこれら二つの側面に表れているから、言い換えれば、両者の位置関係がこれら二つの側面を通して見て取れるからです。それについてご説明しましょう。

私がよくする話の一つですが、私たちがその存在を認識しているもの、つまり例えば自分の眼や耳に入ってくるものとか自分の身体または身体動作など「それがそこに在るというそのことが私たちに分かっているもの」を仮に映画館のスクリーン上の映像だとしたら、私たちの真我はそれらをスクリーンに対して垂直な方向から見ている映画館の観客に当たります。

この喩えの中では、映画館の観客が「真我=見る意識」の象徴なんですね。ではこの喩えの中のスクリーンは何の象徴かと申せば、私たちがその存在を認識しているものたちの在りかというか容れ物、すなわち三次元空間の象徴に他なりません。

そこを踏まえれば、この喩えから次のことが読み取れるはずです。「真我=見る意識」は、私たちがその存在を認識しているものを三次元空間に対して「垂直な方向」から見ている。分かりやすく言い換えるなら、私たちにとっての無形の眼とも言える「真我=見る意識」は、私たちがその存在を認識しているものを三次元空間の内側からではなくその「外側」から見ている、ということですね。

このことから、「垂直の側面(G)」を真我が持っているということの意味がお分かりいただけると思います。でもこれだけではまだ、「一体化の側面(F)」を真我が持っているということの意味までは見えてきませんよね。

そこで、さらに言葉を足して皆さんに申し上げたいのは、「真我=見る意識」は、私たちがその存在を認識しているものに釘付けになってもいる、言い換えればピタリと一つになってもいる、ということです。

マンガチックすぎる! バカにしてるのか! とおしかりを受けそうですが、その消息を視覚的なイメージで理解したかったら、あの映画館の観客の眼玉がスルスルッと前方に伸びていってスクリーン上の映像にピタリとくっ付く様をイメージしてみられたらいいでしょう。

どうです、イメージできたでしょうか(笑)。

この超マンガチックなイメージを通して、「真我=見る意識」の視点の位置はこの三次元空間に対して「垂直な方向」にあるがそれと同時に、その視線は私たちがその存在を認識しているものに釘付けになっている、ということの意味が視覚的・感覚的に理解できるはずです。

そしてそれが視覚的・感覚的に理解できれば、真我は「垂直の側面(G)」と「一体化の側面(F)」を併せ持っているということの意味もまた視覚的・感覚的に理解できるに違いありません。どちらも同じことを言っているからです。

「過去断ちの法」の実践によっても体現可能なこれら二つの側面

話は変わりますが、前回の記事からもお分かりのように、私がこれまでご紹介してきた真我発身体動作法のどれか一つを実践することによって私たちは、動きの中で真我の持つ全側面を体現することができます。

なので、例えば私のイチ押しの「過去断ちの法」を実践することによっても私たちは、動きの中で真我の持つ全側面を体現することができるわけです。

そしてここに言う「真我の持つ全側面」の中には当然ながら、今取り上げた「垂直の側面(G)」と「一体化の側面(F)」も含まれています。従って例えば「過去断ちの法」なら「過去断ちの法」を実践している時の私たちは、動きの中でその真我の持つ二側面をも体現できていることになります。自分にその自覚があってもなくても、そのことに変わりはありません。

では、動きの中でその真我の持つ二側面を体現するとは具体的にはどういうことなのでしょうか。一言で申せばそれは、動き(身体動作)と一つになっていると同時に動き(身体動作)に対して「垂直な方向」にある状態になる、ということです。

“動き(身体動作)に対して「垂直な方向」にある”とは?

こう申し上げると、“動き(身体動作)と一つになっている”の部分は分かるが、“動き(身体動作)に対して「垂直な方向」にある”の部分はまだよく分からない、という方が少なくなさそうですね。なので補足しておきますが、ここに言う“動き(身体動作)に対して「垂直な方向」にある”は、その意味合いを考えると次のようなものに言い換えることもできないではありません。

“動き(身体動作)に対して「垂直な方向」に離れている”

“動いている身体の外側に出ている”

“身体動作という体験の外側に出ている”

“身体動作が行われているこの世界から「垂直な方向」に抜け出している”

何々、補足を読んでますます訳が分からなくなった! ですって……それは困りましたね。世の中には言葉を足せば足すほど訳が分からなくなる事柄もあるのだということを私もつい忘れていたようです。

しかし私が今お話ししたことは、たとえ今のあなたには絵空事のように思えたとしても、体験的事実としてうなづくことができるものであることを申し添えておきます。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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