真我発身体動作法の一つとしての「絶対無為の法」/「過去断ちの法」9

2019-04-29

真我における「絶対無為の側面」

真我の持つ側面の中には「絶対的な無為の中にあるという側面」もあります。この側面のことをここでは仮に「絶対無為の側面」と呼ぶことにいたしましょう。

真我の持つ側面の中にこの「絶対無為の側面(絶対的な無為の中にあるという側面)」があるということは何を意味するのでしょうか。私のこれまでの話を覚えておられる方には「耳タコ」でしょうから結論だけ申せば、私たちはそれを体現することによっても、言い換えれば「絶対的な無為の中にあること」によっても、心を脇に置くことができ、その結果として真我を発現(顕在化)させることもまたできるということに他なりません。

静的なものに組み込みやすく動的なものに組み込みにくい「それの体現」

この「絶対無為の側面」という言葉から私が連想するものの一つは座禅ですが、座禅というのは私の見立てによりますと、「座り」を通してその真我の持つ「絶対無為の側面」を体現するための修行法、言い換えれば「座り」を通して絶対的な無為の中にあることを実践する修行法のように思われます。

座禅の専門家でもない私のこの見立てが当たっているかどうかはさておき、少なくとも「座り」のような静的なものが真我の持つ「絶対無為の側面」の体現を組み込むのに非常に適していることだけは間違いありません。これは、身体動作のような動的なものが「それの体現」を組み込むのにあまり適していないのとは対照的です。

補足しておきますと、「座り」に「それの体現」を組み込むということは具体的には「絶対的な無為の中にありつつ座ること」を指し、身体動作に「それの体現」を組み込むということは具体的には「絶対的な無為の中にありつつ身体動作をすること」を指します。

両者を見比べてみてください。それぞれを実践してみるまでもなく、つまり頭で考えただけでも、前者よりも後者の方がはるかに実践が難しいということがお分かりいただけるのではないでしょうか。

後者つまり「絶対的な無為の中にありつつ身体動作をすること」というのは言うなれば、全く何もしないことと何かをすることとを融合させようとする試みに他ならないわけですから。もちろん前者つまり「絶対的な無為の中にありつつ座ること」にも固有の実践の難しさというものはありますがそれでも、後者の実践の難しさに比べたら屁みたいなものでしょう(こういう物言いって屁差別?)。

真我発身体動作法の一つとしての「絶対無為の法」

それぐらい「絶対的な無為の中にありつつ身体動作をすること」の難しさはずば抜けているということですが、それでもこの「絶対的な無為の中にありつつ身体動作をすること」というのは前回、前々回の話に出てきた「心に何かをさせないことを含んだやり方」に分類できますので、その意味では一応「真我発身体動作法」のお仲間になれる資格を持っていると言えます。

ここからは話を進めやすくするために、その「絶対的な無為の中にありつつ身体動作をすること」を仮に「絶対無為の法」と呼ぶことにいたします。

「過去断ちの法」と「絶対無為の法」の到達点は同じ

「真我発身体動作法」の中で、実践が一番難しいのがこの「絶対無為の法」だとすれば、実践が一番やさしいのは「過去断ちの法」だと言えますが、両者の間には共通点もあります。それは、どちらを実践しても結果的に動きの中で真我の持つ全側面を体現できるようになっているということです。

既にご存じのように、真我の持つ「絶対無為の側面」の体現を身体動作に組み込んだものが「絶対無為の法」であるのに対して、真我の持つ「過去を見ないという側面」の体現を身体動作に組み込んだものが「過去断ちの法」でありますが、どちらを実践しても結果的には動きの中で真我の持つ全側面を体現できるようになっているんですね。

その意味で、「絶対無為の法」という入り口から入っても「過去断ちの法」という入り口から入っても到達点は同じと言えるわけです。

何故そうなるのかと申せば、これら二法がどちらも「真我発身体動作法」すなわち真我から身体動作を起こすための技法に属するお仲間であるからに他なりません。

このように私たちは、前出の二法のどちらを実践しても結果として真我の持つ全側面を体現できるようになっているのですが、ここに言う「真我の持つ全側面」には当然ながら、くだんの「絶対無為の側面(絶対的な無為の中にあるという側面)」も含まれています。

従って、「絶対無為の法」ではなく「過去断ちの法」を実践することによっても私たちは結果的に、動きの中で真我の持つ「絶対無為の側面」を体現できることになります。正確には、「絶対無為の側面」というよりはそれも含めた全側面というべきですが。

そうしますと私たちは、動きの中で真我の持つ「絶対無為の側面」を体現するためには必ず「絶対無為の法」を実践しなければならないというわけではないんですね。

皆さんぜひ、実践が難しい「絶対無為の法」ではなく実践がやさしい「過去断ちの法」を通して、動きの中で真我の持つ「絶対無為の側面」を体現することの意味、もしくは「絶対的な無為の中にありつつ身体動作をすること」の意味を頭や理屈じゃないところで確かめていただきたいと思います。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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