心の出番がある技法とない技法を分ける言い回しの違い/「過去断ちの法」8

2019-04-29

真我の「私がその存在を認識しているものと一つになっているという側面」

これまでいくつかの記事を通してお話ししてきたことですが、真我には「私がその存在を認識しているものと一つになっているという側面」もあります。ここに言う「私がその存在を認識しているもの」とは例えば、私たちの眼や耳に入ってくるものとか私たちの心に生じる思考・イメージ・感覚(フィーリング)などのことですね。もちろん、身体動作もその中に含まれます。

で、「私がその存在を認識しているものと一つになっているという側面」が真我にあるということは取りも直さず、この側面の体現を(この側面を体現することを)身体動作に組み込むことによっても、もしくは落とし込むことによっても私たちは、真我発の身体動作を実現できるということに他なりません。

それはちょうど、真我の持つ「過去を見ないという側面」や「いかなるものにも依拠しないという側面」の体現を身体動作に組み込んだり、落とし込んだりすることによって私たちが真我発の身体動作を実現できるのと同じです。このあたりの消息は、三つ前の記事から順ぐりに読んできておられる方には説明しなくてもお分かりいただけるでしょう。

問題は「その体現」をどのような形で身体動作に組み込むかだ

そうしますと問題は、「真我の前述のような側面」の体現をどのような形で身体動作に組み込む(落とし込む)べきかということになりますよね。

さあ、私たちはどのような形で、「真我の前述のような側面」の体現を身体動作に組み込んだら(落とし込んだら)いいのでしょうか。捻りを加えずにストレートに考えたら、その答えは次のようなものになるはずです。

身体動作と一つになりながら身体動作をすること

要するに身体動作と一つになりながら身体動作をするという形でそうしたらいいってことですが、この「身体動作と一つになりながら身体動作をすること」というのは、前回の話に出てきた用語を用いて言わせていただくなら、「心に何かをさせることを含んだやり方」に分類されるがゆえの問題があると言えます。

「心に何かをさせることを含んだやり方」に分類されることの何が問題なの? という方は前回の記事を読んでおられる方の中にはまさかいらっしゃらないだろうとは思いますが、一応おさらいさせていただきますと、こういう「心に何かをさせることを含んだやり方」というのは実践するほどに心の出番が作られるので心を脇に置くことが難しくなり、その結果として真我発の身体動作を実現することもまた難しくなります。そういう問題があるわけです。

言い回しを替えて使えない技法を使える技法にする裏技

で、この問題を解決する道は一つしかありません。それは、「身体動作と一つになりながら身体動作をすること」という言い回しを次のような言い回しに替えることです。

身体動作と自分の間に距離を作らないようにしながら身体動作をすること

いかがでしょうか。「身体動作と一つになりながら身体動作をすること」という言い回しと、この「身体動作と自分の間に距離を作らないようにしながら身体動作をすること」という言い回しを見比べてみてください。

つまるところの意味はどちらも同じですよね。しかし前者によって表現されているものが「心に何かをさせることを含んだやり方」であるのに対して、後者によって表現されているものは「心に何かをさせないことを含んだやり方」です。言い回しをアレンジしたことでこれだけの違いが出たわけです。そこから生じる差を整理すると次のようになります。

・「身体動作と一つになりながら身体動作をすること」は「心に何かをさせることを含んだやり方」に分類される。なので実践すると心の出番が作られ心を脇に置くことが難しくなる。その結果として真我発の身体動作を実現することもまた難しくなる。

それに対して……

・「身体動作と自分の間に距離を作らないようにしながら身体動作をすること」は「心に何かをさせないことを含んだやり方」に分類される。なので実践しても心の出番が作られず心を脇に置くことが容易になる。その結果として真我発の身体動作を実現することもまた容易になる。

前者と後者のつまるところの意味は同じであるにも関わらず、言い回しの違いによって最終的には以上のような差が両者の間に生じてしまうんですね。言い回しというものの侮りがたさがお分かりいただけるのではないでしょうか。

ここから引き出される結論は次の通りです。「身体動作と一つになりながら身体動作をすること」は真我発身体動作法として使えないが、「身体動作と自分の間に距離を作らないようにしながら身体動作をすること」は「方法無き方法」や「過去断ちの法」と同じように、真我発身体動作法として使える。

とはいえ、これを正しく実践するためには相当なセンスが求められそうなことから積極的におススメする気はないのですが、意欲のある方はこれにトライしてみられるのも一興かも知れません。

今にフォーカスする時代から「過去断ちの法」の時代へ

話は変わりますが、前出の「身体動作と一つになりながら身体動作をすること」と「身体動作と自分の間に距離を作らないようにしながら身体動作をすること」の関係は、前回の記事に出てきた「今に在りながら身体動作をすること」と「過去を見ないことに徹しながら身体動作をすること(=過去断ちの法)」の関係と同種のものだと言えます。

前回の記事に出てきたこれら二つのやり方もまた、つまるところの意味は同じであるにも関わらず、違った言い回しで表現されていることが元で結果的に次のような大きな差を生じさせているからです。おさらいのつもりでお読みください。

・「今に在りながら(今にフォーカスしながら)身体動作をすること」は「心に何かをさせることを含んだやり方」に分類される。なので実践すると心の出番が作られ心を脇に置くことが難しくなる。その結果として真我発の身体動作を実現することもまた難しくなる。

それに対して……

・「過去を見ないことに徹しながら身体動作をすること(=過去断ちの法)」は「心に何かをさせないことを含んだやり方」に分類される。なので実践しても心の出番が作られず心を脇に置くことが容易になる。その結果として真我発の身体動作を実現することもまた容易になる。

このように技法とか秘訣といったものは、たとえそこに含まれている意味合いに本質的な違いはなくても、どんな言い回しで表現されているかによって、使い物になったりならなかったりすることもあるわけです。

手前味噌ではありますが、それもあってこれからは、今にフォーカスする時代から「過去断ちの法」の時代になるのではないかと思っている次第。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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