瞑想系身体動作法(19)「過去断ちの法」Ⅶ

真我の一側面を体現することが組み込まれている真我発身体動作法

前回、前々回の話からもお分かりのように、私たちは真我の持つ側面の中のどれか一つを体現することによって心を脇に置くことができますし、またその必然的な結果として、真我を発現(顕在化)させることもできます。が、その真我の持つ側面の中には例えば次のようなものがあります(本当は他にもあるのですが)。

A・今に在るという側面

B・未来を見ないという側面

C・過去を見ないという側面

D・いかなるものにも依拠していないという側面

で、これまた前回、前々回の話のおさらいになりますが、「過去断ちの法」には前出のCを体現することが組み込まれて(含まれて)おり、「方法無き方法」には前出のDを体現することが組み込まれて(含まれて)います。

だからこそ私たちはこれら二法を通して、「心を脇に置いた中での身体動作」=「真我発の身体動作」を実現できるというわけです。「過去断ちの法」や「方法無き方法」が真我発身体動作法たり得るのは、そういう背景があるからなんですね。

真我発身体動作法は二つしかないのか?

さて以上のことを理解された皆さんに今、私への質問があるとしたら、その中の一つはおそらく次のようなものではないでしょうか。

前出のAやBの体現が組み込まれている身体動作法というものはないのか? もしそういうものがあれば、それらもまた「過去断ちの法」や「方法無き方法」と同じように真我発身体動作法として用いることができるはずだが。

この手の質問には、こうお答えしましょう。

前出のAやBの体現が組み込まれている身体動作法というものも理論的にはあり得る。が、仮にそういうものがあったとしても現実問題として、真我発身体動作法として用いるには実践上難しいところがある。

「今に在りながら身体動作をすること」の実践上の難点

この意味をよくご理解いただくために、AあるいはBの体現が組み込まれている身体動作法というものが仮にあった場合、どのような実践上の難がそこにはあるのか、これから見てみたいと思います。

まずは、Aの体現が組み込まれている身体動作法に焦点を当ててみましょう。

Aの体現が組み込まれている身体動作法、それは言い換えれば「今に在りながら身体動作をすること」となるわけですが、この「今に在りながら身体動作をすること」に取り組んでいる時というのはなぜかすみやかに心が脇に置かれません。これはやってみればお分かりになると思います。

Aの体現が組み込まれている身体動作法というのは理論的には、例えばCの体現が組み込まれている「過去断ちの法」と同じように、取り組めばすみやかに心が脇に置かれるはずなのです。あくまでも理論的にはね。

なぜなら、AとCは突き詰めれば同じになるからです(そうなる理由は二つ前の記事で述べました)。それなのに、実際にそれに取り組んでみると、なぜかすみやかに心が脇に置かれないんですね、これが。

理論と現実の乖離(かいり)がそこにはあります。現実が常に理論通りに運ぶとは限らないわけです。

謎を解く鍵は「心の出番」というキーワード

では、どうしてそうなるのでしょうか? その理由を簡単に申せば次のようになります。Aの体現が組み込まれている身体動作法(今に在りながら身体動作をすること)には「心の出番」を作る要素があるから。

これは、Cの体現が組み込まれている身体動作法(過去を見ないことに徹しながら身体動作をすること=「過去断ちの法」)には「心の出番」を作る要素がないのとは対照的ですね。

後者には「心の出番」を作る要素がない、それに対して前者には「心の出番」を作る要素がある、そういう違いが両者の間にはあるわけです。

この違いはどこから来ているのかと申せば、後者が「心に何かをさせないことを含んだ技法」であるのに対して前者は「心に何かをさせることを含んだ技法」であるところから来ています。これについてご説明しましょう。

Cの体現が組み込まれている身体動作法(過去を見ないことに徹しながら身体動作をすること=「過去断ちの法」)、これは「心に何かをさせないことを含んだ技法」です。一方、Aの体現が組み込まれている身体動作法(今に在りながら身体動作をすること)、これは「心に何かをさせることを含んだ技法」です。それぞれの意味合いを考えたらそうなるでしょう。

で、必然的な結果として、「心に何かをさせないことを含んだ技法」には「心の出番」を作る要素がなく、「心に何かをさせることを含んだ技法」には「心の出番」を作る要素があると言えます。字面だけ見ると両者の間には「る」と「ない」の違いしかないのですけれども。いらん話ね。

そして、これまた必然的な結果として、「心の出番」を作る要素がない技法への取り組みはすみやかに心を脇に置くことを可能にし、「心の出番」を作る要素がある技法への取り組みはすみやかに心を脇に置くことを可能にしません。

そういう背景があるので、Cの体現が組み込まれている身体動作法(過去を見ないことに徹しながら身体動作をすること=「過去断ちの法」)への取り組みによってなら私たちはすみやかに心を脇に置くことができますが、Aの体現が組み込まれている身体動作法(今に在りながら身体動作をすること)への取り組みによっては私たちはすみやかに心を脇に置くことができないのです。

ここまでの話からもお分かりのように、真我の持つ側面の中のどれか一つを体現することは心を脇に置くための手立てたり得る、という私がよくする物言いはあくまでも理論的にはそうなりますよということでありまして、現実が常に理論通りに運ぶとは限らないということも知っておいてください。

「今にフォーカスしながら生きること」に対する私の見解

ちなみに以上のような理屈を当てはめて考えてみますと、あのドイツの悟り系メッセンジャー某氏が勧めている生き方「今にフォーカスしながら生きること」もまた、心を脇に置くことの役には立たないという話になってしまいます。

なぜなら「今にフォーカスしながら生きること」にも「心に何かをさせること」が含まれているから、とだけ申し上げれば、もはやこれ以上の説明は必要ないでしょう。

この「今にフォーカスしながら生きること」をはじめとする「心に何かをさせること」が含まれている生き方・身の処し方・修行法といったものは心を脇に置くための手立てとしてはススメられない、引いては真我を顕在化させるための手立てとしてもススメられない、ということになります。

皮肉な物言いをお許しいただけるなら、それらは「今に在るための手立て」としてすらおススメできません。

それらの手立てとしておススメできるのは「心に何かをさせないこと」が含まれている生き方・身の処し方・修行法といったものだけなんですね。

とはいえ、それらの手立てとしてススメられないものイコール価値が無いものと申し上げているわけではありませんので、そこは誤解なきようお願いします。

「未来を見ないことに徹しながら身体動作をすること」の実践上の難点

話は変わりますが、次に焦点を当ててみたいのは前出のBの体現が組み込まれている身体動作法です。

前出のBの体現が組み込まれている身体動作法、それは言い換えれば「未来を見ないことに徹しながら身体動作をすること」に他なりませんがお察しのように、コレの方は「心に何かをさせること」が含まれていません。その結果として「心の出番」を作る要素もまた含まれていません。

そしてその一点を見る限りでは、理論的には次のようなことが言えます。コレへの取り組み、すなわち「未来を見ないことに徹しながら身体動作をすること」への取り組みによっても、「過去断ちの法」=「過去を見ないことに徹しながら身体動作をすること」への取り組みの時と同じぐらいのすみやかさで心を脇に置くことができるはずだ。

皆さんも、そんな風に見ておられるのではありませんか。

が、この見方には考慮されてない点が一つあると私は考えます。それは何かといいますと、あくまでも私見ですが、一般的に私たちは、「過去を見ないこと」ほどには「未来を見ないこと」が得意ではない、ということです。

皆さんの同意が得られないようであれば、「少なくとも身体動作をしている時は」という前提をそこに付けさせてもらいましょう。

一般的に私たちは、少なくとも身体動作をしている時は、「過去を見ないこと」ほどには「未来を見ないこと」が得意ではない、あるいは上手くできないと思うのですがいかがでしょうか。いずれにしても、私は個人的にそのように思っているのです。

「未来を見ないこと」が組み込まれている身体動作法、言い換えれば「未来を見ないことに徹しながら身体動作をすること」を、真我発身体動作法の一つとして「こういうものも有っていい」と認めていつつ、私の方から積極的に皆さんに提唱しないのはそのために他なりません。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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