瞑想系身体動作法(18)「過去断ちの法」Ⅵ

宇宙即真我なのではない

どこかで既にした話かも知れませんが、まあいいでしょう。あくまでも仮定ですが、もしも今、この宇宙のすべて、すなわち可視の物質領域も不可視の波動領域(あるいはクォンタムフィールド)も含めた宇宙のすべてが丸ごと消去されたとしても、なおその後に残る何かが存在します。

そんなものが存在するわけはない! と思っておられるそこのあなた、じゃなくて……スピ系なのに頭の固いところだけはガチガチの唯物論者そっくりの方々からしてみると、夢物語のようなとんでもない話に映るかも知れませんが、私の言う真我とはそれのことなのです。

言い換えれば、この宇宙の不可視の波動領域、もしくはこの宇宙の可視の物質領域と不可視の波動領域をあわせたもの、この二者のいずれも私の真我観においては真我とは見なされないということでもあります。

従ってスビリチュアル界隈でよく使われている「ワンネス」とか「全体」といった言葉が、もし仮にこの二者のいずれかを指しているのであれば(どうもそんな感じですね)、その「ワンネス」も「全体」も私の言う真我には該当しないことになります。私に言わせれば、その「ワンネス」も「全体」も超えたものこそが真我だからです。

そんな真我でも発現させる道は一つしかないという分かりやすさ

さてそれでは本題に入りますが、そんな途方もない真我であっても、何度も申し上げておりますように、それの発現(顕在化)のために私たちがしなければならないことというのは心(顕在意識+潜在意識+…)を脇に置くという一つのことしかありません。前述のような途方もないところがある反面、そういう意味での分かりやすさもあるんですね、真我ってやつには。

で、前回のおさらいになりますが、私たちにとって、真我の持つ側面の中のどれか一つを体現することは心を脇に置くための手立てたり得ます。つまり私たちは、真我の持つ側面の中のどれか一つを体現することによって心を脇に置くことができるわけです。

こんな側面もある真我

ではその真我の持つ側面にはどんなものがあるのかといいますと、前回取り上げた三つの側面すなわち「今に在るという側面」「未来を見ないという側面」および「過去を見ないという側面」以外では、ちと分かりにくいかもですが、「いかなるものにも依拠していないという側面」ってのもあります。ここでは、これに焦点を当ててみましょう。

この「いかなるものにも依拠していないという側面」というのは、ニュアンスが少し変わりますが、次のように言い換えることも可能です。

・いかなる支えも無しに在るという側面

・立脚したり、基づいたり、拠りどころにしたりしているものが何も無いという側面

これらの言い換えを通して、「いかなるものにも依拠していないという側面」なる言い回しに私が込めようとした意味合いをより詳細にくみ取っていただければ幸いです。

真我のこの側面を体現することによっても心を脇に置くことができる

真我の持つこの側面のことをこれ以降は「真我の第四の側面」と仮称させていただきますが、私たちがこの「真我の第四の側面」を体現することによっても心を脇に置くことができる理由は、先ほども申し上げましたように、私たちにとって真我の持つ側面の中のどれか一つを体現することは心を脇に置くための手立てたり得るからに他なりません。

で、ここが大事なところなのですが、私たちはその「真我の第四の側面」を体現することによって、言い換えれば「いかなるものにも依拠しないこと」によって心を脇に置くことができるという事実は、私たちが身体動作をしている時であっても変わりません。

つまり私たちは身体動作をしている時であっても、身体動作をしていない時とまったく同じように、「真我の第四の側面」を体現することによって、言い換えれば「いかなるものにも依拠しないこと」によって心を脇に置くことができるというわけです。

身体動作時には「いかなるものにも依拠しないこと」をこう言い換えたらよい

ここに言う「いかなるものにも依拠しないこと」は当然ながら、「いかなる支えも無しに在ること」とか「立脚したり、基づいたり、拠りどころにしたりしているものを一切無くすこと」とかに言い換えることもできないではありませんが、私たちが身体動作をしている時に限って言えば、それよりももっと適切な言い換えの仕方があります。

具体的に申しますと、私たちが身体動作をしている時に限って言えば、ここに言う「いかなるものにも依拠しないこと」は「いかなる方法にも依拠しないこと」とか「立脚したり基づいたり従ったりできる方法を一切持たないこと」といった方法という言葉が含まれているフレーズに言い換える方がより適切なのです。

その方が、実践の課題がより明確化されている分だけ、実践が容易だからです。

ということで私たちは、身体動作時に「真我の第四の側面」を体現することを求めるのであれば、「いかなる方法にも依拠しないで身体動作をすること」あるいは「立脚したり基づいたり従ったりできる方法を一切持たないで身体動作をすること」にこそ取り組むべきだと言えます。

これが「方法無き方法」

ここに言う「いかなる方法にも依拠しないで身体動作をすること」あるいは「立脚したり基づいたり従ったりできる方法を一切持たないで身体動作をすること」が真我発身体動作法の一つ「方法無き方法」そのものであることは皆さんが既に察しておられる通りです。

従って「方法無き方法」というのはある角度から見ると、身体動作時により効率的に「真我の第四の側面」を体現するための方法であるという風にも言えるわけです。

今回は記事のタイトルは「過去断ちの法」Ⅵだというのに、「過去断ちの法」ならぬ「方法無き方法」の背景にあるものについてお話しさせていただきました。前回の記事内容を受けてのことです。

前回の記事の最後にお話ししたことの補足

ところで前回の記事といえば、その最後に私はこんなようなことを申し上げました。

今回は、「方法無き方法」の実践によって「心を脇に置いた中での身体動作」を実現できる理由には触れませんでしたが、それに関する話は後でいたしましょう。

が、これを書いた後、過去記事を読み返していて気づいたことなのですが、「方法無き方法」の実践によって「心を脇に置いた中での身体動作」を実現できる理由に触れた記事を私は既に書いておりましたね。その記事のタイトルは“瞑想系身体動作法(6)「方法無き方法」Ⅱ”です。

当記事においても「方法無き方法」の実践によって「心を脇に置いた中での身体動作」を実現できる理由に(結果的に)触れてはおりますが、前出の記事では当記事とはまた違った角度からそれに触れられています。

その意味では前出の記事と当記事はワンセットになっていると言えます。

中島タローでした。

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