瞑想系身体動作法(15)「過去断ちの法」Ⅲ

2019-03-11

「方法無き方法」よりもモノにしやすい「過去断ちの法」

一つ前の記事でもお話ししましたように、真我発の身体動作をできるようになりたいと思っておられる方は、「方法無き方法」と「過去断ちの法」のうちどちらか一つ、自分にしっくりくる方をマスターしていただければ、それで充分です。

どちらも真我発の身体動作を実現するための技法という点では同じであり、どちらを実践しても身体動作のあり方は同じになるからです。

が、強いて私のオススメはどちらなのかを言わせてもらうとしたら、それは「過去断ちの法」ということになります。その根拠は、「方法無き方法」がコツという色合いが強いのに対して「過去断ちの法」は技術という色合いが強いというところから来ています。

つまり、コツという色合いが強い「方法無き方法」は勘のいい人以外はモノにしにくいのに対して、技術という色合いが強い「過去断ちの法」は基本的に誰でもモノにしやすい、だから私としてはどちらかと言えば、「方法無き方法」よりも「過去断ちの法」の方を皆さんにオススメしたい、という次第。

それでも「方法無き方法」がよいという方はこうしましょう

とはいえ皆さんの中には、「過去断ちの法」よりも「方法無き方法」に魅かれるという物好きな方(失礼!)もおられるかも知れませんね。そういう方はどうしたらいいかと言いますと、そういう方もまずは誰でもモノにしやすい「過去断ちの法」への取り組みからはじめられたらいいと思います。その方が遠回りのように見えても堅実なのです。

何故なら、前出の二法はどちらを実践しても身体動作のあり方は同じになるので、「過去断ちの法」のやり方が分かると「方法無き方法」のやり方も自然に見えてくるようになっているからです。

身体動作を通して真我を表現する技法でもあるこの二法

ところで前出の二法のセールスポイントは、「真我の覚醒すなわち悟りに到ってない方でもこれを実践すれば真我から身体動作を起こせるようになる」というものですが、真我から身体動作を起こせるようになるということは別の角度から捉えると、身体動作を通して真我を表現できるようになる、ということなのでもあります。

理由は、「誰が身体動作をしているのか」もしくは「身体動作をしている主は誰なのか」ということは身体動作の上に必ず表れ醸し出されてくるものだからです。

というわけで「方法無き方法」と「過去断ちの法」というのは、真我という眼に見えないものを身体動作という眼に見えるものを通して表現する技法という側面も持っていることになります。

身体動作と墨字の共通点

それから、今の話に一つ申し添えておきたいのは、これら二法のいずれかを用いて書かれた墨字にもまた真我が表現される、ということです。ご存じのように墨字というのは身体動作の結果であって身体動作そのものではないのですが、墨字を書いている時の身体動作の有りようは必ず墨字に反映されます。

だから前出の二法のいずれかを用いて書かれた墨字にもまた、前出の二法を用いてなされた身体動作と同じように、真我が表現されることになるというわけです。

こんな話をしますと次のような声が返ってきそうですね。「では、その身体動作や墨字などを通して表現される真我とは一体どのようなものなのか?」

トニー・パーソンズの真我描写

それにお答えする前にまずは、あの「非二元」の代表的メッセンジャーの一人トニー・パーソンズが真我をどのようなものとして捉えていたか見ておきましょう。

彼はその著作の中で、真我を「存在」と呼びかえて次のように描写しています。

存在は完全にただただ全体で存在です。そして、それは生きていて、新鮮で、セクシーで、みずみずしく、即座にこれなのです。

引用元:『何でもないものが あらゆるものであるー無、存在、すべてー』著者/トニー・パーソンズ 発行所/(株)ナチュラルスピリット (103ページ 6行目から)

ここで着目していただきたいのは、「それは生きていて、新鮮で、セクシーで、みずみずしく」という部分です。彼はこのように真我というものを、生きていて、新鮮で、セクシーで、みずみずしいものであるという風に形容しているわけですが……。

これに対しては、次のような突っ込みを入れたくなる向きもあるかも知れません。「真我を私の側から知ることは不可能なはずだから、真我をこんな風に形容できるというのはおかしい!」

この手の突っ込みというのはある角度から見ると当たってないこともないです。が、真我は私の側からは知ることができなくても私でない側、言い換えれば「真我に切り替わった私の側」からは知ることが可能だという事実を見落としているがゆえの穴もあると言えます。

つまり何が言いたいのかと申しますと、トニー・パーソンズは私の側からではなく「真我に切り替わった私の側」から知り得た真我の有りようをあそこで述べていると思われるので前述のような突っ込みは当たらない、ということ。

あの問いの答え

で、話を戻しますが、先ほどの「では、その身体動作や墨字などを通して表現される真我とは一体どのようなものなのか?」という問いに対してはくだんの彼の言葉をほぼそのまま拝借して、次のように答えさせていただきます。

それは生き生きとしていて、新鮮で、セクシーで、みずみずしいものです。

この消息を自分の眼で確認する一番手っ取り早くて間違いのない方法はやはり、「方法無き方法」か「過去断ちの法」のどちらかを用いて墨字を書いてみることだと言えます。

そのようにして書きあがった墨字を眼にし、そこに表現されているものに接してみれば、真我というものが生き生きとしていて、新鮮で、セクシーで、みずみずしいものであると言える理由が感覚的にお分かりになるでしょう。

それから、真我が空想の産物なんかでは決してないリアルな存在であるということもね。空想の産物に過ぎないものやリアルな存在ではないものが、身体動作や墨字を通して表現される道理はありませんから。

中島タローでした。

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