真我発身体動作法実現のためになすべき唯一のこととは?/「過去断ちの法」2

2019-04-29

二つの「真我発身体動作法」

既に終了し過去のものとなった身体動作を心で振り返らないようにしながら身体動作をする。

※ここに言う「過去」は絶対の今(=瞬間も無い今)を基準とした厳密な意味における過去を指す。

前回も申し上げましたように、これが「真我発身体動作法」の一つ「過去断ちの法」のやり方です。これによって私たちは真我から身体動作を起こすことができるようになります。

ちなみに、もう一つの「真我発身体動作法」すなわち「方法無き方法」のやり方は次のようなものでした。

何らかの方法を先に立ててそれに従いながら身体動作をするという形を取らずに身体動作をする。言い換えれば、いかなる方法も先に立てず、またいかなる方法にも従わず身体動作をする。

ニ法の共通点

ご覧の通り、「方法無き方法」も「過去断ちの法」も「真我発身体動作法」という同じ括りに属する身体動作法でありながら、それぞれのやり方には大きな開きがあります。が、これら二つには共通点もあります。前回触れた「どちらもやり方がシンブル」といった表面的な共通点ではなく、もっと深いところにある共通点です。

それは何かと言いますと、どちらの技法も直接的に狙っているのは「心(顕在意識・潜在意識・深層意識)を脇に置いた中での身体動作」であるということです。どちらの技法も直接的に狙っているのは真我発の身体動作それ自体ではなく、「心を脇に置いた中での身体動作」なんですね。

言い換えれば、近視眼的に見る限りでは「方法無き方法」も「過去断ちの法」も「心を脇に置いた中での身体動作」を実現するための技法だと言える、ということでもあります。

にも関わらずこれら二法が結果的に「真我発身体動作法」たり得るのはなぜかと言いますと、「心を脇に置いた中での身体動作」と真我発の身体動作というのは表裏一体であり、前者ができさえすれば、それがそのまま後者もできていることとイコールになるからです。

このように申し上げると、ではなぜ「心を脇に置いた中での身体動作」と真我発の身体動作は表裏一体なのか? という質問が返ってきそうなので、それにもお答えしておきましょう。それに対する答えは次の通りです。

真我の発現を妨げている唯一のものは心であり、私たちが身体動作をしている時であってもなくても、そのことに変わりはないから。

要するに、私たちが身体動作をしている時であってもなくても真我の発現を妨げている唯一のものは心なので、「心を脇に置いた中での身体動作」は結果的に真我発の身体動作とイコールにならざるを得ない、だから両者は表裏一体なのだ、という理屈ですね。

真我という名の宝石と心という名の覆い

話は変わりますが、私はこれまで当ブログにおいて、次のような現在の一般的な真我観からすると超異端な発言を重ねてまいりました。

・真我は宇宙や空間に対して「垂直な方向」に存在している。

・真我は波動ではなく一個の無限大の粒子のようなものである。

・真我はこの宇宙の眼に見える領域(明在系)と眼に見えない領域(暗在系)を超えた第三の何かであり、それらの外側にある。

・万人共通の潜在意識や万物の命の源といえども真我に該当しない。

・真我は太極ではなく無極である。

・真我は感性(感じること)を伴わない特殊な知覚の主である。

私のこうした物言いに接した方の中には、こんな風に思っていた方もおられるかも知れません。「真我がそれほどまでに私たちの想像を超えたものなのだとしたら、真我発の身体動作を実現するためには私たちはそれ相応の普通じゃないことをせにゃあならんのではないか。」

が、実際のところはどうかというと前述の通りでありまして、真我発の身体動作を実現するために私たちがなすべきことというのは「心を脇に置いた中での身体動作」を可能にしてくれる「方法無き方法」や「過去断ちの法」のようなシンブルな技法の実践だけなのです。

それというのも繰り返しになりますが、私たちにとって真我を発現させることの妨げになるものは常に心だけであり、身体動作をしている時であれしてない時であれ私たちが心を脇に置けさえしたら真我は必ず発現するようになっているものだからです。

想像してみてください。例えばここに世界一の宝石があって、それが一枚の布で覆われていたとした場合、その宝石を見るために私たちがなすべきことというのはその布をめくるというシンブルなことだけですよね。

あれほどのものを目の当たりにしようというのだから私たちもそれ相応の普通じゃないことをしなければ……てなことには絶対ならないはずです。そんなことを言ったら笑われてしまいます。

ちょうどそれと同じように、真我がどんなに私たちの想像力の埒外にあるものだとしても、真我を発現させるために私たちは「真我発現の妨げになっている唯一のもの=心」を脇に置くこと以上のことは何もする必要がないわけです。

ちなみに「方法無き方法」と「過去断ちの法」の二法は両方ともマスターする必要はありません。どちらか一つ、自分にしっくりくる方をマスターしていただければOKです。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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