続・真我の眼覚め・悟りは視点移動でもある

真我とは「垂直方向」から全てを見ている者だとも言える

前回の記事の続編ということもあり話の進行上、前回の記事の一部を以下に抜粋させていただきます。

外的なもの内的なものに関わらず、私たちがその存在を認識しているもの全てを仮にスクリーン上の映像だとしたら真我はスクリーンの外側からそれらを見ている映画館の観客のようなもの……。ここに言うスクリーンはスペース(宇宙・空間)の象徴です。

これに対する補足になりますが、これの中に出てくる「真我はスクリーンの外側からそれらを見ている映画館の観客のようなもの」というくだりは次のように言い換えることもできます。「真我はスクリーンに対して垂直な方向からそれらを見ている映画館の観客のようなもの」。

具体的には「スクリーンの外側」という部分が「スクリーンに対して垂直な方向」に言い換えられていることにお気づきでしょうか。こういう言い換えができるということは、ここでは「スクリーンの外側」も「スクリーンに対して垂直な方向」も指しているものは同じだということに他なりません。

この言い換えによって皆さんにお伝えしたいのは、真我というものは、私たちが置かれているこのスペースに対して垂直な方向から私たちが認識している様々なものを見ている存在と捉えることも可能だ、ということです。

とはいえ、このスペース(宇宙・空間)というのはご存じの通り、縦・横・高さから成る三次元の広がりを持つものなので、それに対する「垂直方向」をイメージできる人など居るわけありませんよね。前出の喩えに出てきた二次元の広がりを持つスクリーンに対する「垂直方向」なら誰でもイメージできるのとは対照的です。

それもあって、ここまでの私の話を眉に唾(つば)をつけながら聞いておられる向きもあるかも知れませんが、物理学の世界では既に、二次元のスクリーンのようなものに対して「垂直な奥行き」を持つ領域(=三次元空間)があるのと同じように、三次元のこのスペース(宇宙・空間)に対して「垂直な奥行き」を持つ領域があってもおかしくはないという説が登場して久しいことをご存じでしょうか。

ちなみに、ここに言う三次元のこのスペース(宇宙・空間)に対して「垂直な奥行き」を持つ領域のことを物理学の世界では「余剰次元」と呼ぶのだそうです。

悟りとは視点の「垂直方向」への移動だとも言える

さて前回の記事で私は次のような意味のことも申し上げました。

悟りとは、視点の位置がスペース(宇宙・空間)の外側に移動することだとも言える。

実はこの物言いにも補足したいことがありまして、それは、ここに言う「スペースの外側」なる言葉もまた、先ほどお話ししたのと同じ理由により、「スペースに対して垂直な方向」という言葉に言い換えができるということです。

要するに前出の物言いというのは、もう少し具体的に言い直したら次のようにもなるということですね。

悟りとは、視点の位置がスペース(宇宙・空間)に対して垂直な方向に移動することだとも言える。

これについて少し解説しておきます。

真我が「見る意識」であることはこれまで何度も申し上げてきた通りですが、先ほどの話からもお分かりのように、その「見る意識」である真我の視点の位置はこのスペース(宇宙・空間)に対して垂直な方向にあります。

そして悟りとは、もっとストレートな捉え方をするなら、今まであった私がその「見る意識」である真我に切り替わることだと言えるのですが、その切り替わりには当然ながら、視点の位置の切り替わり、すなわち視点の位置がスペース(宇宙・空間)に対して垂直な方向に移動することも含まれてます。そうでなかったら矛盾していますよね。だから結果的に、前出のような物言いも成り立つわけです。

悟りには「何これ普通じゃん!」と言いたくなるような面もあるかと思えば、そういうぶっ飛んだ面もまたあるんですね。

「垂直性」という面白い言葉遣い

以下はオマケの話です。

「見る意識」である真我の視点の位置はこのスペース(宇宙・空間)に対して垂直な方向にあるという風に今申し上げましたが、これは要するに、真我はこのスペース(宇宙・空間)に対して垂直な方向に存在しているということに他なりません。

ある本の中で真我のことを「垂直性」という言葉で言い表していたトニー・パーソンズ氏などは、その消息が分かっておられたようです。でなければ真我のことを「垂直性」なんていう、ある意味唐突な今まで誰も使ったことのない言葉で表現できるものではありませんから。

オショーが「垂直の次元」と表現し、クリシュナムルティが「存在の四次元」と表現したものを、彼は「垂直性」と表現したわけです。なるほど! と思いましたね。

中島タローでした。

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