真我の眼覚め・悟りは視点移動でもある

真我・フィーリングなき知覚者

「真我は見る者である」という悟者の物言いが「真我は感じる者である」という風に意訳(誤訳)されやすい原因の一つは、日本語の「感じる」という言葉には「見る」という意味合いもあることだと思います。もしかしたら他国においても、そうなのかも。

「感じる」ことは心の働きの一つであり、真我はその心を超えた存在であるという点からも、「真我は見る者である」という物言いに含まれている「見る」が「感じる」とイコールにならないことは明白ですが、前述のような原因も手伝って両者は同一視されやすいんですね。

もしも両者がイコールだとしたら、真我は心、もしくは心の中の一つの層ということになってしまいますが、実際は真我と心は別物なので両者がイコールになることはありません。真我は心の一番深いところ(潜在意識の最奥部)にあるものだという見方がスピリチュアル界隈にはあるようですが、あれは誤認なのです。

真我の見る働きはスペースの外側から来る

さて、「心の感じる働き」と「真我の見る働き」の最も際立った違いは視点の位置だと言えます。その違いを具体的に申せば、前者における視点の位置はスペース(宇宙・空間)の内側にあるのに対して、後者における視点の位置はスペース(宇宙・空間)の外側にあるということです。

言い換えれば、心の感じる働きはスペースの内側から来ているのに対して、真我の見る働きはスペースの外側から来ているということでもあります。一つ一つ見てみましょう。

まず「心の感じる働きはスペースの内側から来ている」ということについてですが、これについては私が言葉を足すまでもなく皆さん既にお分かりのことと思います。心がスペースの内側に存在していることは誰にとっても明らかなので、その心の感じる働きの出どころがスペースの内側であることもまた誰にとっても明らかなはずですから。

次に「真我の見る働きはスペースの外側から来ている」ということについてですが、こちらの方は認知度が超低いと思われますので、少し踏み込んで説明いたしましょう。

外的なもの内的なものに関わらず、私たちがその存在を認識しているもの全てを仮にスクリーン上の映像だとしたら真我はスクリーンの外側からそれらを見ている映画館の観客のようなものだ、という喩えを私は用いることがあります。が、ここに言うスクリーンはスペース(宇宙・空間)の象徴です。スペースをなぞらえたものがここに言うスクリーンなんですね。

外的なものも内的なものも含めて私たちがその存在を認識しているものたち、例えば私たちの眼や耳に入ってくるものとか私たちの心に生じる思考・イメージ・感覚といったものなどは全てスペースの中にあり、スペースという枠の外に出るものではないことはご存じの通りですが、その点を踏まえてここでは、スペースをスクリーンになぞらえているわけです。

そして、前出の喩えによって私が象徴的に表現しようとしているのは次のことです。映画館の観客がスクリーン上の映像をスクリーンの外側から見ているのと同じように、真我は私たちがその存在を認識しているもの全てをスペースの外側から見ている。

そこを踏まえますと、「真我は見る者である」はこう言い換えることもできます。真我は私たちがその存在を認識しているもの全てをスペースの外側から見ている者である。「真我の見る働きはスペースの外側から来ている」と言える理由はこれです。

真我が見るものと心が見るものの違いは微小

ところで、心の感じる働きはスペースの内側から来ているのに対して真我の見る働きはスペースの外側から来ているというこの違いの絶大さとは対照的に、心の感じる働きによってキャッチされたものと真我の見る働きによってキャッチされたものの違いは微小です。紙一重の差と言っていいかも知れません。

心の感じる働きによってキャッチされたものと真我の見る働きによってキャッチされたものの違い、それは分かりやすく申せば、私たちが感性を通して見るものと感性も通さずに(つまり完全な無心状態で)見るものの違いでもあるわけですが、それが微小であることは具体的な実践を通して実感することができます。

例えば今、あなたの視線の先に夕日があるとした場合、あなたが感性を通して見る夕日と感性も通さずに見る夕日の間にある違いを見極めるのは非常に難しいはずです。それぐらい両者の間にある違いは微小だということですね。

そう言えば、禅宗には「柳は緑 花は紅(くれない)」なんて言葉がありますが、これは悟りの境地で見る柳の色は緑で花の色は紅だという意味、言い換えれば、感性も通さずに(つまり完全な無心状態で)見る柳の色は緑で花の色は紅だという意味に他なりません。

が、柳の色が緑で花の色が紅であることは感性を通して物を見る者にとっても同じであることは皆さんご存じの通りでありまして、このことからも、感性を通して見るものと感性も通さずに見るものとの間にある違いは無きに等しいほど微小であることがお分かりになると思います。

それでも両者の視点の位置はまるきり違うという厳然たる事実

しかし話は戻りますが、その一方で、先ほど申し上げたことからもお分かりのように、私たちが感性を通してものを見ている時と感性も通さずにものを見ている時とでは視点の位置がまるきり違います。私たちが感性を通してものを見ている時の視点の位置はスペースの内側にあり、私たちが感性も通さずにものを見ている時の視点の位置はスペースの外側にあるからです。

それゆえ、感性を通してものを見ている人と感性も通さずに、すなわち真我(という名の眼)でものを見ている人の二人が仮にここにいたとした場合、彼らが見ているものそれ自体の違いは限りなくゼロに近いにも関わらず、それぞれの視点の位置は天と地の違いどころではないぐらいに違うという面白い話になります。このギャップは面白すぎる!

視点の位置は根本的に違うのに見えているものそれ自体はほとんど同じというこの消息は、例えば、宇宙人がUFOに設置された望遠鏡から見る「忠犬ハチ公の像」も人間様が傍らで見る「忠犬ハチ公の像」もほとんど同じということと似ていると言えます。次元の違いを度外視すれば、という前提は当然つきますけれど。

視点移動でもある悟り

さて以上のような次第で、私たちは悟りすなわち真我の覚醒に到りますと、見えているものそれ自体は未語者とほとんど違わないままに視点の位置はスペースの外側に移動してしまうという平凡と非凡が同居したような体験をすることになります。悟りとはある角度から捉えると視点移動のことだとも言えるのは、そのために他なりません。

悟っても見えているものそれ自体は未語者とほとんど違わないというところだけしか知らないと、どこかの誰かさんみたいに「悟りがそんなに浅いものであるわけがない!」となるかも知れませんが、実際の悟りにおいては前述のように驚くべき視点移動の要素がそこに加わるわけです。

中島タローでした。

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