続・ 真我の何たるかを心で掌握することの無意味さ

真我でモノを見ている状態は心で掌握しようとすると失われる

前回の記事を読んでおられる方は既にお分かりのことと思いますが、真我でモノを見ている状態がどういうものなのか、言い換えれば「思考も感性(感じること)も介在させずにモノを知覚している状態」がどういうものなのか、ということを心で掌握することは不可能です。

が、話はこれだけにとどまりません。さらに言うなら、私たちが真我でモノを見ている状態になれたとしても、その状態がどういうものなのか心で掌握しようとした途端にその状態は失われることになります。せっかくその状態になれたというのに、もったいないですよね。だってその状態になれたということは、悟りまで後一歩というところまで来れたということでもあるわけですから。

「その状態がどういうものなのか心で掌握しようとした途端にその状態は失われる」というこの消息を、もっと卑近な例を通して理解したい方は「何かに夢中になっている状態」を思い浮かべてみられたらいいと思います。

誰でも心当たりがあるはずですが何かに夢中になっている状態というものもまた、その状態がどういうものなのか心で掌握しようとした途端に失われる定めにあるからです。何かに夢中になっている状態にありながら、その状態がどういうものなのか心で掌握することなんてできっこないのは誰でもすぐにお分かりいただけるでしょう。

ちょうどそれと同じように、真我でモノを見ている状態にありながら、その状態がどういうものなのか心で掌握ですることなんてできっこない、というわけ。

真我でモノを見ている状態と何かに夢中にになっている状態を比較してみますと、前者は心(顕在意識+潜在意識)という枠の外側にあるのに対して後者は心という枠の内側にあるという基本的な違いは見られますが、どちらもその状態がどういうものなのか心で掌握しようとした途端に失われるようになっている点だけは共通しているんですね。

その状態を心で掌握しようとすることで閉ざされる悟りの可能性

さて前述のように、「思考も感性(フィーリング)も介在させずにモノを知覚している状態」イコール「真我でモノを見ている状態」なのですが未悟者の場合、「思考も感性も介在させずにモノを知覚している状態」になれたとしても、それが真我でモノを見ている状態であるというそのことが体験的事実として分かっているわけではありません。頭で分かっていると体験的事実として分かっているは違うんですね。そのことが体験的事実として分かるのはあくまでも悟り以後のことなのです。

そのため未悟者である彼らはそこで、「これがなぜ真我でモノを見ている状態と言えるのか?」という疑問を持ちやすく、それを解くために、その状態がどういうものなのか(どのようになっているのか)心で掌握しようとしがちですが既にご存知のように、それをやるとその状態は失われてしまいます。

そしてその状態が失われるということは、悟りの可能性が閉ざされることを意味します。なぜなら一般的に悟り、すなわち「真我が真我自身を見るという転回」は私たちが真我でモノ(真我以外の何か)を見ている状態の後に訪れるようになっているからです。

要するに、一般的にはまず真我でモノを見ている状態が先にあって悟りがそれに続くという順番になっているので、悟りに先立つべきその状態が失われてしまったのでは悟りの起こりようがなくなる、という話。

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