真我の何たるかを心で掌握することの無意味さ

真我を対象化できない理由

真我を対象化することはできません。その意味は、「真我とはこれのことか!」とか「これが真我か!」といった具合に、真我の何たるかを心で掌握することはできないということです。

もっと踏み込んで言うなら、それ以前の問題として、真我の存在自体を、あるいは真我が存在するというそのこと自体を、私の側から知ることは不可能だということです。

真我を対象化することが不可能な理由を分かりやすい比喩を使って説明するとしたら、次のようになります。「それは例えば、自分の眼玉を視野に入れるに等しいことだから」あるいは「それは例えば、映画鑑賞している自分の姿を映画のスクリーン上に見つけるに等しいことだから」。

もう少しひねった比喩として、こういうのもあります。「それは例えば、望遠鏡をのぞいている自分の眼を望遠鏡の向こうに広がる世界の中に見いだすに等しいことだから」。

これら三つの比喩に共通しているのは、次のことを示唆している点です。「それが不可能なのは、常に見る側にのみ存在し見られる側には置かれ得ない真我というものを、見られる側に置こうとする行為に他ならないからだ」。

「真我とは私の内的世界と外的世界の両方を見ている眼のような存在である」という知識をお持ちの方であれば、その意味がお分かりになると思います。

真我の何たるかを言葉で表現することの問題点

さて、真我を対象化することは不可能であるという事実、言い換えれば真我の何たるかを心で掌握することは不可能であるという事実に照らせば、真我の何たるかを言葉で表現しようとすることの問題点が見えてきます。

なぜなら真我の何たるかを言葉で表現しようとすることは、人様に真我の何たるかを心で掌握させようとすることとイコールだからです。言葉の果たす役割というものを考えれば、そういうことになるでしょう。

私が真我の何たるかを言葉で表現すれば、それを聞いた人は自然な反応として、聞いたことをもとに真我の何たるかを心で掌握しようとします、言い換えれば真我の像を心の中に結ぼうとします。これには、真我の何たるかは心で掌握することが可能であるというその人の誤解も一役買っているわけですが。

しかし前述のように実際は、そういうことは不可能なので、そこでその人が心で掌握した真我の像というものは百パーセント的外れなものにならざるを得ません。それが的外れなものにならないこともあるのは、真我の何たるかを心で掌握することが可能な世界においてだけです。でもここは、そういう世界じゃありません。真我の何たるかを言葉で表現した際、必ずついて回る問題がこれです。

つまりその表現自体には何の間違いもなくても、一つの避けられない問題として、それを聞いた人がそれをもとに心に掌握した真我の像というものは必ず的外れなものになってしまうということです。

その問題の意味を具体的な例を挙げて説明すると……

そのことを具体的な例を挙げて説明いたしましょう。例えば、以前私はある記事で「真我とは感じること無しにただ知る者である」というような表現をしたことがあります。これは「真我とは見る者である」という言い方をもう少し具体的な言い方に直したもので、これ自体には何の間違いもありません。

が、この「真我とは感じること無しにただ知る者である」という表現はこれを聞いた人に「真我における感じること無しにただ知っている状態」というものを心で掌握するように仕向けます。言葉による表現が本来持っている作用というか人に働きかける力によって、自然にそうなるんですね。これは仕方のないことなのです。

しかし既に分かっておられますように、「真我における感じること無しにただ知っている状態」なるものは「これのことか!」と、私たちが心で掌握できるような類のものではありません。それは真我の何たるかに属する事柄だからです。

従って心で掌握された「その状態」というものは否応なく真実を反映しない、的外れなものにならざるを得ないわけで、そこが問題なのです。

ちなみにそうは言いながら、私たちは「その状態」になることならできます。が、「その状態」になっている時の私たちは心(=自分)を失っています。私たちが「その状態」を心で掌握できない理由の一つにはそれもあるということも申し添えておきましょう。

真我の何たるかを私が人に語る目的

さてこんな話をしますと、「では、お前は一体何のために真我の何たるかを人に語るのか?」という突っ込みを入れたくなる向きもあろうかと思います。

それに対する回答になりますが、私が真我の何たるかを人に語る目的の一つとして、それによって多くの人が真我に対して持っている誤解を解く、というものがあります。

真我の何たるかを人に語ったからといって、聞いた人の心に真我の何たるかを掌握させられるわけでもないのはこれまでお話しした通りです。が、それによってその人が持っていた真我に対する誤解を解くことはできるんですね。

例えば「真我とは感じること無しにただ知る者である」と私が言うことによって、聞いた人の中にあった「真我とは感じる者である」という誤解を解くことはできます。

また例えば「真我とは一粒の無限大の粒子(のような存在)である」と私が言うことによって、聞いた人の中にあった「真我は波動(無数の粒子)でできている」という誤解を解くことはできます。

また例えば「真我は全宇宙の外にある」と私が言うことによって、聞いた人の中にあった「真我イコール宇宙」という誤解を解くことはできます。

ということで私が皆さんに希望するのは、真我に関する私の話は、真我の何たるかを心で掌握することのためにではなく、真我に対して自分が持っていた誤解を解くことのためにこそ使っていただきたいということです。

もっと言うなら、真我の何たるかは心では掌握できないんだということを実感するための材料としても、真我に関する私の話を使っていただきたいと思います。「こういうものが真我なのだとしたら、真我を心で掌握することなんてそりゃあ無理だわ!」といった具合にです。真我に関する私の話というのは、見方を変えればそんな役立て方もできるはずなんですね。ぜひ、そういう役立て方をしてください。

・真我の何たるかを心で掌握することを勧めない理由

真我の何たるかを心で掌握することを勧めない理由は何? という声が聞こえてきましたので、それにもお答えしておきましょう。

「真我の何たるかを心で掌握できている度合いが大きい」イコール「悟りに近い」と思っておられた方は「ん?」となるでしょうが本当は、その度合いが小さければ小さいほど真我を覆い隠しているものも小さく、また真我の眼覚めを意味する悟りに近いことにもなるからです。

中島タローでした。

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