真我の覚醒をうながすクエスチョン

真我の覚醒を求めている方に取り組んでほしいクエスチョン

私とは誰か? これはご存じの方はご存じのように、あのインドの覚醒者ラマナ・マハリシが世の求道者らに投げかけたクエスチョンであり、真摯に取り組めば真我の覚醒(悟り)が促されるものとしとて知られています。

が、僭越ながら、真摯に取り組めば真我の覚醒(悟り)が促されるという点において、私が考案した次のクエスチョンもそれのお仲間です。

私たちが思考も感性(感じること)も外して物を見ている時、それを見ている無形の主体がある。それは誰なのか?

このクエスチョンに取り組むにあたり、私の過去記事『真我・垂直の次元の意識7〈真我で見るとは?編〉』を参考にしてみられるのも悪くないと思います。

それに続くもう一つのクエスチョン

このクエスチョンに取り組む際の注意点は、何らかの答えが出たらそれでお終いにするのではなく、さらに次のようなクエスチョンを自分に投げかけてみることです。

この答えを見ているのは誰なのか?

これについてご説明しましょう。

「私たちが思考も感性(感じること)も外して物を見ている時、それを見ている無形の主体がある。それは誰なのか?」というファースト・クエスチョンに対して出す答えは人さまざまだと思います。が、答えが出た時、心の中で「これだ」とか「これに違いない」という風に何かが掌握されている点は誰でも同じであるはずです。

つまりそこにおいて、心の中で掌握されているものの中身は人さまざまだとしても、心の中で何かが掌握されているというその一点においては皆同じなはずだということですね。

で、くだんの「この答えを見ているのは誰なのか?」というセカンド・クエスチョンの意味は、その心の中で掌握されている何かを見ているものは誰なのか? というものに他なりません。

二つのクエスチョンの答えは同じ

このセカンド・クエスチョンの答えは実は、ファースト・クエスチョンの答えなのでもあります。つまり両者は同じものなのです。だからこそ、ファースト・クエスチョンの答えが出た後「これでよし」と終わりにするのではなく、答え合わせのために「この答えを見ているのは誰なのか?」というセカンド・クエスチョンを自分に投げかけてみる必要があるわけです。

で、これに対して何らかの答えが出たら、そこでまた先ほどと同じように、「この答えを見ているのは誰なのか?」というクエスチョンを自分に投げかけます。つまり、セカンド・クエスチョンをもう一度くりかえすのです。それの答えもまたファースト・クエスチョンの答えとイコールなので、二度目の答え合わせのために、そうするわけです。しつこいとは思いますがね。

そしてそれに対する答えが出たら、またまた同じことを繰り返します。が、これに関しては覚えておいてもらいたいことが一つありまして、それは何かと言いますと、答えが出た後も「この答えを見ているのは誰なのか?」というクエスチョンを挟める余地がまだ少しでもそこにあったなら、あなたは真の答えには辿り着けていないことになる、ということです。

なぜなら、真の答えというものは私の側からは見られ得ないものだからです。真の答えは私の側からは見られ得ないものであるがゆえに、「この答えを見ているのは誰なのか?」というクエスチョンを喚起することはないんですね。

要するにアンタが本当に言いたいのは、そのクエスチョンが出なくなるまでそのクエスチョンを繰り返す必要があるということか? と思われたかも知れませんが本当のことを申せば、その通りなわけです。

クエスチョンが止んだ時出る可能性がある真の答え

「この答えを見ているのは誰なのか?」というクエスチョンを繰り返す中で、「本当の意味でこの答えを見ているものを私の側から見ることは絶対に不可能である」ということを頭や理屈ではなく体験的事実として心底理解できる時があなたにやってくるかも知れません。あきらめの時だとも言えますね。

しかしそんな時、見るものと見られるものとの一致が起こる可能性があります。実は真の答えはそこにあるのです。

中島タローでした。

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