私が記事に引用文をつける理由

二種類ある悟りや真我に関する話

悟りや真我に関する話というのは、次のような二分の仕方もできます。

A・すでに広く浸透しているもの。多くの人に受け入れられやすいもの。

B・まだ広く浸透していないもの。多くの人には受け入れられにくいもの。

※AとBの間には当然グレーゾーンもありますが、ここでそれは横に置きます。

Aの代表的なものは例えば、「悟りは思考によっては到れない」とか「今ここが悟りへの入り口である」とか「個としての私を超えたところに真我がある」といったやつ。

Bの代表的なものは例えば、「悟りの中には思考だけでなく感じることさえもない」とか「悟るとスペース(宇宙・空間)の外に出る」とか「真我は一粒の粒子である」といったやつ(将来的にAに移行する可能性なきにしもあらずですが)。

私が「B系の話」に引用文を添える理由

悟りを扱っているブログの運営者という意味では私も一応悟り系メッセンジャーのはしくれですが、現時点における悟り系メッセンジャーとしての私の特徴というのは、記事にする話の中にBの占める割合が超高いことだと自認しております。

そんな私ですが私の場合、ご存じの方はご存じのように、「B系の話」を記事にする時は名のある悟り系マスターの言葉を引用することがとても多いです。名のある悟り系マスターというのは例えば、オショーとかニサルガダッタ・マハラジなどのことですね。

私がそうする主な理由は、そうすることによって、その話に対して多くの人が感じるであろう受け入れがたさを緩和したいからです。もう少し詳しく説明しましょう。

「B系の話」というのはその見慣れなさと一般的な通念からの逸脱性のゆえに、多くの人にとってにわかには受け入れがたいものであろうことは書いている私にも想像がつきます。

そこで私が考えたのは、その話の正当性を裏付けてくれている「彼ら」の言葉を引用という形で添えることにより、その話の説得力と信用度を高め、ひいてはその話に対して多くの人が感じるであろう受け入れがたさを緩和できるのではないか、ということだったわけです。

厳密に申せば、記事の中に「彼ら」の言葉を引用する理由はそれだけというわけでもないのですが、それがほとんどであることは確かです。

そこにある「彼ら」の権威と影響力を利用する狙い

が、こういう物言いに対しては次のような見方をされる向きもあるのではないでしょうか。それって要するに、記事にした話の説得力と信用度を底上げするために「彼ら」の権威と影響力をチャッカリ利用しようとしたってことだよね。

いかがでしょうか。あなたもチラッとぐらいはこんな見方をされたのではありませんか。いずれにしても、これについての私の気持ちを正直に申し上げますと、「そういう面も確かにある」ということになります。そういう面もあることは否定できないんですね。でも、それっていけないことなのでしょうか。

「B系の話」を広く浸透させるためには手段を選びたくない私

私のする「B系の話」を、名のある悟り系マスターの言葉を引用して添えるという手段に頼ることなく、多くの人にすんなりと受け入れてもらうためには、「こいつの言うことだからきっと本当なんだろう」「こいつの言うことなら信用できる」と多くの人に思わせるだけの権威と影響力が私になければなりません。

が、現実問題として、それだけの権威と影響力が今の私にあるかというと、残念ながら無いと思います。私が「B系の話」をする際前述のような手段に頼ること多いのは、そこを補うために他なりません。

そこを補うために前述のような手段に頼ることの安直さとカッコよくなさは自分でも分かります。が、安直と思われようとカッコよくないと言われようと、そうすることで、「B系の話」を多くの人々の間に浸透させることに寄与できるなら、もうそれだけで万々歳だという気が私にはあるんですね。

悟り系メッセンジャーとしての私の最大の関心事は、今はまだ認知度の低い「B系の話」を多くの人々の間に浸透させ常識化させることにあります。そして、そのために使える手段があるなら体裁を気にせず何でも使ってやろうと考えているのですが、その手段の一つとして記事にああいう引用文をつけることがあるというわけです。

少なくとも現時点の私はそのように考えております。

中島タローでした。

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