「真我で見る」の意味をあのマスターの話から探る⑧

この記事は前回の記事の補足という意味合いを持っています。前回の記事を書き終わった後アドリブでとっさに思いついたことを記事にしたものゆえ、内容的にタイトルとの整合性がとれてないものになり、すみません。これが「最終回」ということで、そこは大目に見ていただきたいと思います。

真我が見えていながら真我の何たるかを語れない状況

さて、悟りの何たるかを伝達するための手段としての言語には大きな欠陥がありますが、それを分かった上で言わせていただくならば、私にとって悟りの中にあるということは「真我(という名の眼)で真我を見ている状態」にあるということでもあります。

が、私がその「真我で真我を見ている状態」にある時、そこには困った問題が一つ内包されています。何かと言いますと、「その状態」にあるままでは私は、真我がどういうものなのか人様に語れないということです。

正確に申せば、私が「その状態」にあることそれ自体には何一つ問題はないのですが、真我がどういうものなのか人様に語ることを私が求められた場合、「その状態」にあるままでは求めに応じられないという問題が私に生じる、ということです。

真我の何たるかをそこで語れない理由

このように申し上げると、「そこで見えているものをそのまま語ればいいのではないか?」と返されそうですが、そうも行かないのですよ。

なぜなら、真我がどういうものなのかということに限らず、人様に何かを語ったり言葉で伝達したりするためには私たちは心を使う必要がありますが、「その状態」にあるままの私は心を使えないからです。「その状態」にあるままの私が心を使えない理由は、「その状態」にあるままってことは心と切り離された状態のままってことでもあるからです。

「その状態」つまり、「真我で真我を見ている状態」というのは見方を変えれば、心と切り離された状態のことでもあるんですね。だから「その状態」にあるままの私は、心を使う必要のある「語り」や言葉による伝達はできないというわけです。

真我の何たるかを語れるようにするための手立て

では、どうすればいいのでしょうか?  答えは一つ、「その状態」から離れて心に戻り、心を使えるようにすればいいのです。

が、私の経験に基づけば、「その状態」から離れて心に戻るための具体的な方法として使えるのは「その状態」を心で振り返ることです。「その状態」を心で振り返るという具体的な方法によって私は「その状態」から離れて心に戻ることができるんですね。

ただし「その状態」を心で振り返る際留意すべき点が一つありまして、それは何かといいますと、「振り返りの時間幅」はできるだけ微細である方がよい、ということです。言い換えるなら、できるだけ微細な過去の「その状態」を心で振り返るようにする方がよい、ということです。

例えば、1秒前の「その状態」を心で振り返るよりもコンマ5秒前の「その状態」を心で振り返る方がベター、コンマ5秒前の「その状態」を心で振り返るよりもコンマ3秒前の「その状態」を心で振り返る方がベター、コンマ3秒前の「その状態」を心で振り返るよりもコンマ1秒前の「その状態」を心で振り返る方がベター、といった具合です。

私の場合一つの目安として、コンマ1秒ばかり前の「その状態」を心で振り返るようにしています。といってもこの「コンマ1秒ばかり前」という表現はあくまでも感覚的なものに過ぎないのですが。(※お忘れではないと思いますが、ここに言う「その状態」とは「真我で真我を見ている状態」のことね。)

今お話ししたことに留意しながら「真我で真我を見ている状態」を心で振り返りますと私は、先ほどの説明どおりというかお目当てどおり、「その状態」から離れて心に戻り、心を使えるようになります。ひいては言葉が使えるようになります。ヤッホー!

真我について語ることを可能にする「その状態」の残像

が、ご存じのようにそこでは、「振り返りの時間幅」がコンマ1秒前のような微細なものに保たれているため、「その状態」から私が退いた距離もまた微細なものに保たれています。「振り返りの時間幅」の長さと「その状態」から私が退いた距離の長さは比例しているんですね。

その結果どうなるかといいますと、私はそこで、「その状態」から離れていながら「その状態」の残像に接することはできるようになります。「その状態」からの離れ方が微細なものに保たれていることが功を奏して私はそこで、「その状態」の残像に接することはできるんですね。

「その状態」と心に戻った私との間の絶妙な位置関係がそこにはあります。「その状態」からの離れ方がもっと露骨なものだったら、あんな残像なんて見えやしません。

ここに言う「残像」は、心に反映された像と言い換えることもできます。その意味ではそれってのは、水面に映った月のようなものだとも言えるでしょう。うっかりすると本物と見間違えそうな月ではありますが。

ここまでお話しすれば、もうお分かりのこととは思いますが、私が真我の何たるかを人様に語っている時というのは、「真我で真我を見ている状態」の残像、分かりやすく言い換えるなら「真我という名の眼に見えている真我」の残像に接しながらそうしているわけです。

ということでもし仮に、あなたが真我と認識しているものについて、前述のような手立てを用いることなく人様に語ることができるとしたら私に言わせれば、あなたが真我と認識しているものは実は本物の真我ではないという話になります。

なぜならそういうことができるということは、あなたが真我と認識しているものは始めから心で知覚可能なものであることの証明であり、始めから心で知覚可能なものが本物の真我であるわけはないからです。

中島タローでした。

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