「真我で見る」の意味をあのマスターの話から探る⑦

今回の話は「真我で見る」の意味というよりは「真我で真我を見る」の意味に関する内容になっています。タイトルとはいくらかズレのある内容ですが、そこのところよろしくお願いします。

悟りの一つ前の段階

悟りの定義の仕方の一つは「真我という見る意識が真我という見る意識自身を見ること」というものですが、この悟りが起こる可能性があるのは私たちが真我という見る意識で何かを見ることができている時です。

ここに言う何かとは私たちの眼や耳に入ってくるものとか、私たちの心に生じる思考・イメージ・感情・感性の働きとしてのフィーリングなど、早い話が私たちがその存在を認識できるものたちを指します。

真我という見る意識で何かを見ることができさえすれば必ず悟りが起こるという保証はないとしても一般論として、それができる前に悟りが起こることがないのは確かです。一般的には、まず先に真我という見る意識で何かを見ることがあって、悟りの起こりがそれに続くという順番になっているわけです。

悟りの起こり方

③(四つ前の記事)で真我という見る意識で感情を見ている状態になる方法に触れましたが、あれを実践された方はその実践時の状態に思いをはせながら、次の話を聞いていただきたいと思います。よろしいでしょうか。

私の眼とか耳に入ってくるもの、あるいは私の心に生じる思考なり感情なりを見ていた真我という見る意識がどういうわけかある時、何をとち狂ったか(これはシャレね)見ている先を180度回転させて自分自身を見てしまうことがあります。ワオッ!!! これが悟りと呼ばれている現象なのです。

この現象は意図的に、あるいはそうしようと思って起こすことはできません。「真我という見る意識で見る」イコール「感じる」だったらそれができますが、実際はそうではないわけですから。悟りは向こうからやってくるものだと言われるのは、そのためです。

悟りによってもたらされる切り替わり

話は変わりますが、皆さんに併せて知っておいていただきたいのは、冒頭に出た悟りの定義だけが悟りの定義ではないということです。同じ事柄でも見る角度によって表現の仕方は違ったものになるということがよく言われますが、悟りとてその例に漏れるものではないんですね。

冒頭に出た悟りの定義というのは本当は、悟りをある一つの角度からのみ捉えた悟りの表現の仕方なのでありまして、それとは別の角度から悟りを捉えると、「私イコール心」という状態から「私イコール真我」という状態への切り替わりと表現することもできます。

その切り替わりの中身をより詳細に申せば、「私イコール心」という嘘の状態が消え失せ「私イコール真我」という真実の状態が露呈すること、となるわけですが。

こういう悟りの定義の仕方もあることを知ったことで、冒頭に出た悟りの定義に対する皆さんの見方が変わったはずです。つまり、前述のような切り替わりがもし起こらなかったら、真我という見る意識で真我という見る意識を見れたことにはならないということが、お分かりになったはずです。

悟りで明らかになる真我は単独の粒子的存在であるという事実

さて、その「私イコール心」という状態から「私イコール真我」という状態への切り替わりというものはちょっとやそっとの変化ではなく、また大きな変化と言ってもまだ足りない根本的な変化です。そのことを未悟者が理解する有効な手立ての一つは、次の事実を知ることだと思います。

心が無数の粒子の集合体であるのに対して、真我はたった一個の無限大の粒子(もしくはそのような存在)である。

いかがでしょうか。無数の粒子の集合体とたった一個の無限大の粒子とでは根本的に違いますよね。これが、「私イコール心」という状態から「私イコール真我」という状態への切り替わりが根本的な変化であると言える根拠の一つです。

誤解はなかろうと思いますが、一応念のために申し添えておきます。その切り替わりというのは、心である私が心の中で「自分は本当は心を超えた真我だったんだー!」と気づくという意味での切り替わりではなく、それまで存続していた心である私が消え失せて真我である私に取って代わられるという意味での切り替わりですからね。・

「真我単独粒子説」を裏付けるあのマスターたちの話

が、それはそれとして、心が無数の粒子の集合体であるということは受け入れられても、真我がたった一個の無限大の粒子(もしくはそのような存在)であるということはにわかには受け入れがたい、という方は少なくないかも知れません。

その手の方に読んでいただきたいのは、パパジ(プンジャジ)の次のような言葉です。

パパジ
……決して失われたことのないもの、永久不変で、自然な、常に存在し、今ここにあるものを見いだしなさい。「今」を見なさい。存在を見なさい。空間を、あなた自身の空を見なさい。すべてはこの一粒の粒子の中にある。宇宙全体がその中に存在し、そこから現れるのだ。そこに戻りなさい。……

引用元:『覚醒の炎 プンジャジの教え』 発行所/(株)ナチュラルスピリット 28~29ページから

引用文の後半部分に「すべてはこの一粒の粒子の中にある」というくだりがありますが、この中の「この一粒の粒子」なる言葉にご注目願います。

引用文全体の文脈からして、ここに言う「この一粒の粒子」が私たちにとっての本当の私すなわち真我を指していることは明らかですよね。パパジ(プンジャジ)もやはり、真我を一粒の粒子と捉えていたのです。

そう言えば、ニサルガダッタ・マハラジもまた真我を一粒の粒子と捉えていたことが見て取れる一文があるので併せてご紹介しておきます。文中の「気づき」および「源」という言葉は真我を指していることを念頭に置きつつお読みください。

意識の中に段階はあるが、気づきの中にはない。それは均質なひと塊(かたまり)なのだ。……。
源は単一であり、シンプルだ。……。

引用元:『私はある ニサルガダッタ・マハラジとの対話』 発行所/(株)ナチュラルスピリット 421ページから

※引用文の省略部分から、初っ端に出てくる「意識」という言葉は心(マインド)を指していると考えられます。

ここから少なくとも、マハラジが真我を均質なひと塊(かたまり)で、なおかつ単一でシンプルなものと見ていたことはお分かりになると思います。私はそのことを、マハラジが真我を一粒の粒子と捉えていたこととイコールだと受け止めているのですが、皆さんはいかがでしょうか。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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