「真我で見る」の意味をあのマスターの話から探る⑥

あるがままのありつぶれ

皆さんは次のフレーズをご存じでしょうか。

あるがままのありつぶれ

これをご存じの方は禅の文献に詳しい方とお見受けいたします。私が大昔、禅関係の本をあれこれアトランダムに読んでいた頃ごく稀に見かけたフレーズだからです。

それの存在を知った当初は意味がよく分からなかったのですが、何となく味のある面白いフレーズだなと思って心に留めておりました。

そしてある日、ああこういうことを言っているのか、とその意味がひらめいたのですが、今回は私がひらめいたその意味をお伝えすることを中心に話を進めていきたいと思います。

ちなみにくだんのフレーズの出どころは、少林窟道場(1931年~)という曹洞宗系の座禅道場を68才のころ開かれた飯田とう隠(いいだとういん)という方です。

そのおおまかな意味

さて、「あるがままのありつぶれ」の末尾の「つぶれ(潰れ)」という言葉は一般的には「形の消失」と解釈されますがここでは、「実体の消失」と解釈します。その上で、「あるがままのありつぶれ」の意味を私流に簡単に説明させてもらうと次のようになります。

モノがあるがままにありながらその実体が消失すること。

こういう風に意味を分かりやすく説明すると、「あるがままのありつぶれ」というフレーズが本来持っている味わい・面白味が削ぎ落されてしまうような気がしますね。が、今はそういうことは横に置いて話を進めましょう。

その消息を体験するカギとなる「今」

モノがあるがままにありながらその実体が消失する消息を体験するためには、本当の意味でモノをあるがままに見る必要があります。そして、本当の意味でモノをあるがままに見るためにはモノを今において見る必要があります。モノが存在し得る唯一の時は今だからです。

が、ここが大事なところなのですが、その「今」というのは、多くの人が今という言葉から連想する「瞬間の今(=今という瞬間)」のことではなく、「瞬間も無い今」のことです。「瞬間の今」と「瞬間も無い今」の違いがお分かりになりますか。それについて説明しましょう。

前者と後者の違いを一言で言うなら、前者が瞬間という時間幅のある今を指しているのに対して後者は瞬間という時間幅さえもない時間幅ゼロの今を指している、ということになります。

時間と言えば普通は一本の線に喩えられることが多いですが、ここでは時間を一本のヨウカンに喩えて、さらに両者の違いに踏み込んでみましょう。

時間を仮に一本のヨウカンだとした場合、「瞬間の今」が取る形はそのヨウカンの極薄のスライスということになります。それに対して、「瞬間も無い今」が取る形はそのヨウカンの切れ目ということになります。

ヨウカンの極薄のスライスには微かながらも厚みがあるのと同じように「瞬間の今」にも微かながらも時間の幅があります。一方、ヨウカンの切れ目には厚みが全くないのと同じように「瞬間も無い今」にも時間の幅が全くありません。

両者の根本的な違いはこのようなものですが、ではどちらが本当の意味における「今」なのかと言いますと、「瞬間の今」ではなく「瞬間も無い今」ということになります。微かながらも時間の幅を持つ「瞬間の今」を顕微鏡を覗くような細かい眼で調べたら、その中に過去と未来がまだ存在していることが見て取れるからです。「瞬間も無い今」にはそういうことはありません。

どちらも「今」と呼べるとはいえ、本当の意味における「今」に該当するのは「瞬間の今」ではなく「瞬間も無い今」の方なんですね。

いかなる実体も存在しない真の「今」

さてそれでは、以上を踏まえてあらためて申し上げますが、私たちは本当の意味でモノをあるがままに見るためにはモノを「瞬間も無い今」において見る必要があります。が、その「瞬間も無い今」には前述の通り時間の幅が全くありません。これは何を意味しているのかといいますと、「瞬間も無い今」の中にはいかなる実体も存在しない、ということです。

なぜなら、なんらかの実体が存在するためにはいくばくかの時間の幅が要るからです。時間の幅が全くないところに一体どんな実体が存在できるというのでしょうか。どんな実体も存在できるわけがありません

ついでながら、物には実体がないということを裏付けるために量子物理学の話が持ち出されることがよくあります。が、この量子物理学で扱われている波動とか粒子とか振動などといったものさえも実は、前述のような理由から実体がないと言えるのです。

モノをあるがままに見ることで消え失せるモノの実体

このようなわけで、私たちが本当の意味でモノをあるがままに見ている時というのは、すなわち私たちがモノを「瞬間も無い今」において見ている時というのは、そのモノの実体が消え失せます。波動とか粒子とか振動といったものまでもひっくるめたモノの実体がです。といっても、私たちの認識の中でですが。

逆に言えば、そこまで行かないようであれば私たちは本当の意味でモノをあるがままに見ることができていないという理屈になりますよね。ここからも、本当の意味でモノをあるがままに見ることの難しさがお分かりいただけるのではないでしょうか。

それでも視野の中には残るモノ

で、話を戻しますが、私たちの認識の中でそのモノの実体が消え失せている間も依然として、私たちの眼にはそのモノがあるがままに見え続けることは言うまでもありません。私たちの認識の中でモノの実体が消え失せたからといって、私たちの視野の中にモノが見いだせなくなるというわけではないんですね。当たり前のことではありますけれど。

先ほど私は「あるがままのありつぶれ」の意味は「モノがあるがままにありながらその実体が消失すること」と申し上げましたが、その意味をさらに詳細に紐解いたら以上のようになります。

真我でモノを見ている時に体験される消息

さて実際にやってみれば分かることですが、私たちが本当の意味でモノをあるがままに見ている時、言い換えれば私たちがモノを「瞬間も無い今」において見ている時、私たちの心は脇に置かれています。

私たちの心はその性質上、過去か未来のどちらかにあるものを捉えることはできても、真の今すなわち「瞬間も無い今」にあるものを捉えることはできないようになっているからです。

で、心が脇に置かれるとどうなるかといいますと、真我という名の眼があらわになります。真我という名の眼を覆っている唯一の存在は心だからです。

そうしますと、私たちにとって本当の意味でモノをあるがままに見るということは、真我という名の眼でモノを見るということでもあるわけです。

従って「あるがままのありつぶれ」というフレーズは、私たちが真我という名の眼でモノを見ている時に体験される消息を表現したものであるとも言えます。

中島タローでした。

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