「真我で見る」の意味をあのマスターの話から探る④


真我という名の知覚=永遠の未知

真我という名の知覚(気づき)が、私たちから見て特殊なものであると言える理由は少なくとも二つはあります。その一つ目は、それが「感じること(一般的な意味における感じること・誰もが知っている感性の働きとしての感じること)」を意味しないという点。その二つ目は、それが私たちにとって永遠に未知なものであり続けるという点。

二つ目の理由として挙げたことの補足になりますが、真我という名の知覚が私たちにとって永遠に未知のものであり続けるということは言い換えれば、真我という名の知覚がどういうものなのかということを私たちの側から知ることは絶対に不可能であるということです。

真我という名の知覚の存在が明らかになるのは何によってか?

こういう話をしますと、「では、何によってその真我という名の知覚の存在は明らかになるのか?」という問いが返ってきそうですが、それに対する答えは次の通り。

真我という名の知覚が真我という名の知覚自身を知覚するという不思議な転回によって、それは明らかになる。

ちなみに余談ながら、「不思議な転回」という言い回しは柴山全慶禅師の「無が無自身に気づく不思議な転回」というフレーズからお借りしました。真我という名の知覚は私たちから見て認識不可能なものであるところから「無」と表現することもできるんですね。

あらためて申し上げますが、真我という名の知覚が真我という名の知覚自身を知覚すること、この不思議な転回、あるいは悟りと呼ばれる現象を通して、真我という名の知覚の存在は明らかになります。

真我においてのみ明らかになる真我という名の知覚の存在

このことからも読み取れますように、真我という名の知覚の存在が明らかになるのはあくまでも私の心も感性も超えた真我においてであって、私においてなのではありません。私において真我という名の知覚の存在が明らかになることは絶対にないのです。

悟りは私に起こるものだとばかり思っておられた方には意外な話でしょうけれども、悟りは真我に起こるものであって私に起こるものではないんですね。言語表現上の方便としてやむなく、「悟りが私に起こる」というような言い方をすることはあるとしてもです。

ということで、「なるほど真我で何かを知覚するとはこういうことなのか、こういうことを指しているのか!納得!」てなことを私が言える日は永遠に来ません。真我という名の知覚の存在が明らかになった後といえども依然としてそれは、私にとっては未知のもの、「何が起こっているのか分からないもの」であり続けるわけです。

もし仮にあなたが前述のようなセリフを口か心でつぶやくような時があったら、「真我という名の知覚」イコール「感じること」と誤認している可能性があります。感じることであれば、「これのことか!」とその存在を私の側から掌握できるからです。

またこの手の誤認というのは、真我という名の知覚が真我という名の知覚自身を知覚する状態のあることを説き、それをススメておられるティーチャーの中にも無いとは言い切れないので、そこは見極めが必要です。

真我という名の知覚のことをパパジに語る質問者

さてそれでは、以上の話を踏まえながら、覚醒者パパジ(プンジャジ)と質問者の間にかわされた次のやりとりをご覧ください。

質問者 興味深いことに、ある種の知覚が、ある特殊な知覚が起こっているようなのです。

パパジ そうだ。それが私の語っていることだ。それが瞑想なのだ。……

質問者 ……何が起こっているのか、自分でもよく分からないのです。

パパジ (笑いながら)そうだ。それが真の瞑想なのだ。……

引用元:『覚醒の炎 プンジャジの教え』 発行所/(株)ナチュラルスピリット 37ページから

パパジが真の瞑想と認めたもの

引用文の最初の行から、質問者は自分に起こった知覚に対して「興味深くて特殊なもの」という印象を抱いていたことが分かります。が、質問者にそのような印象を抱かせた知覚が「感じること(一般的な意味における感じること)」を意味しているわけがありません。「感じること」というのは誰にとってもありふれた既知のものだからです。

そのことと、「感じること」を意味しない知覚は真我という名の知覚しかないことを考え合わせますと、質問者に起こった知覚が真我という名の知覚であったことは明らかです。

そして、質問者がそれのことを「ああいう形で」話題に挙げることができているところから、質問者に前出の「不思議な転回」あるいは「悟りと呼ばれる現象」が起こっていたことが見て取れます。

が、質問者はそれに対して、「何が起こっているのか、自分でもよく分からないのです。」という風にも述べています。それはそうですよね。先述のように、ここに言う「不思議な転回」あるいは「悟りと呼ばれる現象」が起こって真我という名の知覚の存在が明らかになるのは、あくまでも真我それ自体においてであって、私においてではないのですから。

で、ご覧のように、それに対するパパジの判定は「それが真の瞑想なのだ」というものでした。瞑想とは何か? という問いに対する答えは今のところまだ統一されていませんが、パパジに言わせると、本当の意味で瞑想と呼べるものは「それ」しかないようです。

中島タローでした。

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