「真我で見る」の意味をあのマスターの話から探る③

真我が見ることのできるものの一つは感情

真我が見ることのできるものは何も私たちの眼や耳などに入ってくるものばかりではありません。私たちの心に生じる気分や感情なども、真我が見ることのできるもののお仲間です。

今回は、真我が見ることのできるものの一つとしての感情に焦点を当てつつ、真我で何かを見るということの意味を探ってみたいと思います。

異論もあるがよく知られているネガティブな感情の浄化法

さて、ネガティブな感情を浄化するための方法としてスピリチュアル界隈でよく知られているものの一つに、ネガティブな感情と向き合いそれを感じる、という方法があります。ご存じの方も多いのでないでしょうか。

が、これに対しては異論を唱える方もおられまして、「その方法だと、ネガティブな感情に巻き込まれることになるのでよくない」というのが、彼らの言い分の大まかな中身のようです。

その方法の存在を知っていて、なおかつ前述のようなそれに対する異論があることも知っておられる方は、自分にネガティブな感情が起こった時、こう迷われるかも知れません。この感情を感じようかな、それとも感じるのやめようかな……と。

実際にそういう迷いを持つ人が居るか居ないかは別として、そういう迷いが存在し得る、ということだけは皆さんお認めになると思います。

感情を感じてなくても感情の存在を知り得るのはなぜ?

ちょっと小難しい言い方をしてしまいましたが、どうしてこんな話をしたのかといいますとね、前述のような迷いが存在し得るということは、次のことを意味してもいる、という点に思い至っていただきたいからなのです。

私たちは感情を感じることをしていない時でも感情の存在を知り得ている(もしくは感情がそこにあることを知り得ている)。

私たちは感情を感じることをしていない時でも感情の存在を知り得ている、だからこそ、前述のような迷いも出て来ようがあるというわけです。もしそうでなかったら、「この感情を感じようかな、それとも感じるのやめようかな…」などという迷いは出て来ようがありません。

もっと言うと、私たちは「死んでも感情を感じるものか!」みたいな感じで感情を感じることを断固拒否している場合でさえも(これって逆説的な意味において、感情としっかり向き合っていることになるわけですが)、感情の存在を知り得ています。あるいは感情がそこにあることを知り得ています。

そんな時、「あれっ、自分は今感情の存在を知り得ている、何がそうさせているのだろう?」といった問いを持たれる方はある意味鋭いと私は思います。

真我が絡んでいる「感情を感じなくても感情の存在を知り得る理由」

さて、それではここで、私たちはなぜ感情を感じることをしていない時でも感情の存在を知り得るのか? ということについて考えてみましょう。

ここに言う「感情を感じる」は「感情を心で知覚する」と言い換えることができます。心の主要な働きは思考すること・イメージすること・感じること、この三つだと思いますが、この中の感じることが心にとっての対象の知覚方法だからです。

で、私たちが「それ」をしていない時でも感情の存在を知り得るということは取りも直さず、心とは別の感情の知覚者が私たちの中に存在しているということに他なりません。

では、その私たちの中に存在する心とは別の感情の知覚者とは何なのでしょう。言うまでもなく、それは真我です。なので、感情を感じること、すなわち心による感情の知覚がなされていない時でも私たちが感情の存在を知り得るのは、真我という名の感情の知覚者が私たちの中に居るからだということになります。その時私たちは、心ではなく真我で感情を知覚しているんですね。

真我の存在は知られず感情の存在は知られるカラクリ

さて、前回の記事を読んでおられる方はすでにお分りのように、私たちがその真我で感情を知覚している時というのは、感情とそれを知覚している真我が分離せず一つになりきっています。私たちがその時、感情の存在は知り得てもそれを知覚している真我の存在は知り得ないのは、そのためです。

一方、私たちが心で感情を感じている(知覚しとている)時というのは、感情とそれを感じている心が分離しています。何かを心で感じるためには、心はそこから引いた位置にいなければならないからです。私たちがその時、感情の存在とそれを感じている心の存在の両方を知り得るのは、そのために他なりません。

覚えておきたい感じることも分離に繋がるという事実

考えることと同じように、感じることもまた対象からの分離を意味するということをオショー(ラジニーシ)は次のように説明しています。当ブログでは既出の引用文になりますが、再度掲載いたします。

考えれば、離れている。感じれば、それほど離れてはいないが、まだ分離している。寄り添ってはいるが、まだ分離している。

引用元:『信心銘』著者/ラジニーシ 発行所/(財)禅文化研究所 124ページから

一般的に、考えることが対象からの分離を意味していることは理解されやすいのに、感じることもまた対象からの分離を意味していることは理解されにくい理由も、この引用文からお分かりいただけると思います。

この引用文にもありますように、感じている時というのは考えている時ほどには分離の程度が大きくない、というのがその理由に他なりません。

私が使っているネガティブな感情の浄化法

最後にオマケの話をしておきましょう。ネガティブな感情の浄化法としてネガティブな感情と向き合いそれを感じるというやり方があるという話を先ほどいたしました。が、実は、私が使っているネガティブな感情の浄化法はそれとは異なる次のようなものです。

ネガティブな感情と向き合うが、それを感じることをしない。

既に分かっておられますように、「ネガティブな感情と向き合うが、それを感じることをしない」ということと「ネガティブな感情を真我で見る(知覚する)」ということとはイコールです。

従って「こちらのやり方」を使うと私たちは真我でネガティブな感情を見ている状態になるわけですが有りがたいことに、真我には見ているネガティブな感情を浄化する力というか性質があります。これが、「こちらのやり方」もネガティブな感情の浄化法として使える理由です。

ネガティブな感情と向き合いそれを感じる、というあのやり方にもネガティブな感情を浄化する効果のあることは認めますが私の経験則では、「こちらのやり方」の方が効率がよいのです。

使えば使うほど「真我で見る(知覚する)」と「心で感じる(知覚する)」の違いが体験的に飲み込みやすくなるという意味においても、私から皆さんにおススメしたいのは「こちらのやり方」です。

中島タローでした。

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