真我は眼でもあり鏡でもある /感性無き知覚者 ②

2019-04-30

鏡という名の手品師

鏡に映った自分の姿を見て、「あっ自分に似たやつがおる!」なんてことを思う者は人間の世界にはまさかいないでしょうが、動物の世界にはいるようです。昔見たテレビで、鏡に映った自分の姿を見て自分の仲間がそこに居ると思い込んでいるらしいペリカンの映像が流れておりました。

どうやらそのペリカンには、鏡に映っているモノは認識できても、モノを映している鏡の方は認識できていなかったようです。そこのあなた、これ読んでホッコリしてらっしゃいますが、私たち人間にもそういうことが起こる可能性が全くないとは断言できませんぞ。もちろん自分の姿を鏡に映している時などではなく、様々な条件が奇跡的に重なった時のことを言っているのですけれども。

くだんのペリカンが、鏡に映っているモノだけ認識できて、モノを映している鏡は認識できないのは何故なのでしょう? アホやから? まあそういう答えもアリと言えばアリなんでしょうが、私にその理由を言わせてもらうなら次のようになります。鏡とそこに映っているモノが全く分離していないから。

その理由になり得るものは他にもあるかも知れないとしても、あえてそれを一つに絞るとしたら、「鏡とそこに映っているモノが全く分離していないから」になるはずです。

私たちは鏡の表面にカンナをかけて鏡に映っているモノを削ぎ落すことはできません。ツラの皮にカンナをかけてニキビを削ぎ落すことはできるとしてもです。例がよくなかったですが、それぐらい鏡とそこに映っているモノとは分離してないってことですね。だからこそペリカンには、鏡に映っているモノは認識できてもモノを映している鏡は認識できないわけです。

真我が鏡に喩えられる理由

ところで鏡といえば、真我の喩えとして使えるものの一つであることをご存じでしょうか。私の場合、真我の喩えとして一番多く使うのは「眼」ですが、この真我というのはまた違った角度から捉えると、「鏡」に喩えることもできるんですね。それについて説明しましょう。

私が真我を眼に喩えるのは、真我は「見る意識」であることを強調するためですが、この「見る意識」、あるいは真我という名の眼には、見ているものに釘付けになるという側面があります。

ここに言う「見ているものに釘付けになる」の意味は、見ているものと隙間なく一つになるとか、見ているものとの間に分離(距離)がなくなるといったものです。この消息は、クリシュナムルティが「見るものは見られるものになる」という言い回しで表現したことと同じです。

なので、真我(見る意識)が見ているモノに釘付けになっているところにだけ着目しますと、真我と真我が見ているモノの関係は鏡と鏡に映っているモノの関係に等しいと言えるわけです。

ちょうど鏡と鏡に映っているモノが分離していないのと同じように、真我と真我が見ているモノも分離していない、ということですね。真我を「眼」だけでなく「鏡」にも喩えることが可能なのは、そういう理由によります。

そうしますと、私たちが今生きているこの世界というのは、真我という名の眼が見ている世界だとも言えますが、違う角度から捉えると、真我という名の鏡に映っている世界だともまた言えることになりますね。ここに言う「鏡」は「映画のスクリーン」に置き換えることもできますけれども。

オショーが解説する「見るものは見られるものになる」

ちなみに前出の「見るものは見られるものになる」というクリシュナムルティの言葉を、オショーは次のように解説しています。

「見るものは見られるものになる」、それは自分が花になるという意味だろうか。違う、だが、ある意味ではそうとも言える。自分が摘み取られるかも知れないとか、誰かが持って行ってしまうとか、自分はもう人間ではない、というような意味で花になるわけではないが。

そういう意味ではない。だがマインドがなければ、自分を花から切り離している境界はない。また花にも、花から人を切り離している境界はない。

……人は人のまま、花も花のままだ。誰も間違ってあなたを摘んだりすることはない。だが、そこには融合がある。

引用元:『信心銘』著者・ラジニーシ/発行所・(財)禅文化研究所 205ページから

引用文の中ほどに「マインドがなければ」という箇所がありますが、これは「真我で見ていれば」と意訳することができます。マインドがない時顕在化するものが真我という「見る意識」だからです。

従って前出の引用文で語られているのは、次のようなことであると言えます。人が真我で花を見ている時には、人は人のまま花は花のままでありながらも、人と花を分けている境界がなくなり、両者は融合する、これが「見るものは見られるものになる」の意味である。

これからもお分かりのように人が真我で花などを見ている時というのは、「見るものは見られるものになります」、言い換えると「見るものと見られるものを分けていた境界がなくなり、両者は融合します」。すでにご存じの通り、真我を「鏡」に喩えることもできるのは、この消息があるからに他なりません。

真我が「見るもの」である点に着目すると真我は「眼」に喩えられますが、その真我(=「見るもの」)は見られるものと融合するという点に着目すると真我は「鏡」に喩えることもまたできないではないというわけです。

 

真我を私たちが認識できない二つの原因

さて、ここまでの話で明らかにさせてもらった真我の二つの側面、すなわち「眼という側面」と「鏡という側面」はどちらも、私たちが真我を認識できない原因として挙げることができます。つまり、私たちが真我を認識できないのは、真我に「眼という側面」があるからだとも言えるしまた、真我に「鏡という側面」があるからだとも言えるのです。

真我の「眼という側面」と「鏡という側面」、この二つはどちらか一つだけを取っても、私たちが真我を認識できない原因としては十分すぎるものがありますが、真我にはその二つがそろっているんですね。

まず、真我に「眼という側面」があることが私たちが真我を認識できない原因たり得ている理由についてですが、それを箇条書きの形で説明すると次のようになります。

①真我に「眼という側面」があるというのは言い換えれば、真我は私たちにとっての眼(無形の眼)の役割を果たしているということである。

②なので、真我という名の眼を私たちは持っていることになる。

③そして、その真我という名の眼の視野に入ったものだけを私たちは認識することができる。

④しかし、その真我という名の眼は自分自身つまり真我だけは視野に入れることができない(これは、顔についてる眼が自分自身だけは視野に入れられないのと同じ)。

⑤だから、私たちは真我という名の眼を認識することができない。

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次に、真我に「鏡という側面」があることが私たちが真我を認識できない原因たり得ている理由についてですが、こちらの方は先ほどの話を通して、皆さん既にお察しいただけているはずです。なのでこちらの方の説明は、一応箇条書きの形を取りますが、おさらいとして簡単に済ませたいと思います。以下がその説明です。

①私たちにとっての眼とも言える真我には「鏡という側面」もあるので、「私たちが見ているもの、もしくは認識しているもの」イコール「真我という名の鏡に映っているもの」という捉え方もできる。

②が、その真我という名の鏡とそこに映っているものとは分離しておらず融合しきっているため、私たちは真我という名の鏡に映っているものは認識できても、真我という名の鏡は認識することができない。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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