「真我で見る」と俗に言う「感じる」はイコールではない/感性無き知覚者①

2019-04-30

 

同じ言葉が常に同じ意味を持つとは限らない

言葉というやつにはややこしいところがありまして、同じ言葉でも使用する人によって意味合いが違っていることがあります。それどころか場合によっては、一人の人間が一つのフレーズの中で使用した同じ言葉であってさえも、意味合いが違っていることがあります。

例えば、あの世界的仏教学者・鈴木大拙が遺した有名なフレーズに「無分別の分別」なんてのがありますが、この中で二度使用されている「分別」という言葉を見てください。

「無分別の分別」の意味は分からない方でも、そこに含まれている二つの「分別」なる言葉が同じものを指していないことだけは、お察しいただけるのではないでしょうか。

「無分別の分別」の意味

あくまでも私が理解している範囲での解釈になりますが、「無分別の分別」の意味を一言で説明するとしたら次のようになると思います。私の分別を無くすことによってあらわれるそれを超えたもう一つの分別。

つまり私のこの解釈に基づけば、「無分別の分別」というフレーズで使用されている二つの「分別」という言葉は、「私の分別」「私の分別を超えたもう一つの分別」というそれぞれ異なる意味を持っていることになるわけです。

ついでながら、私たちは心で物事を分別しますので、ここに言う「私の分別」は「私の心に起こる分別」と言い換えることも可能ですしまた、ここに言う「それを超えたもう一つの分別」は「私の心を超えたところで起こる分別」=「真我から来る分別」と言い換えることもできないではありません。

以上は、ある同じ言葉が二つの異なる意味を持つものとして一つのフレーズの中で使用される場合もあることを示す一例です。

「感じる」という言葉に二つの異なる意味を持たせたオショー

さて、オショー(ラジニーシ)の邦訳本に『瞑想━祝祭の芸術(アート)』というのがあるのですが、それに収められているある講話の中でも、ある同じ言葉が二つの異なる意味を持つものとして使用されています。

ある同じ言葉とは具体的には「感じる」という言葉です。オショーはその講話の中で、「感じる」という同じ言葉に二つの異なる意味を持たせて使用しているんですね。

講話のタイトルは「存在との無言のコミュニケーション」になっていますがこれは、講話の中で解説されている瞑想法の名称でもあるようです。その内容を要約すると次のようになります。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

・存在との無言のコミュニケーション

①「美しい」という言葉を介在させずに花の美しさを感じる。

→花を見てその美しさを感じる。だが「美しい」という言葉を使ってはならない。その言葉を口に出してもいけないし、心のなかで使ってもならない。

②次に、花の美しさを感じることさえも止めて花をそこに在らしめる。

→花をそこに在らしめ、あなたもそこに在らしめる。だが感性を割り込ませない。花が美しいと感じることさえしない。

※つまりここで取り上げられている「存在との無言のコミュニケーション」という名の瞑想法は、「美しい」という言葉無しに花を見ながら、花の美しさを感じる第一ステップと、花が美しいと感じる感性さえも無くして花を見る第二ステップから成っているわけです。

以上の話の続きは原文からの抜粋になります。

……そのときあなたは感性なしで美しさを感じるだろう。
……それは感性(フィーリング)ではない。
……あなたは実存的に何かを感じたのだ。

これをなしえたときには、あなたは何もかもが去ってしまったのを感じるだろう。思考も、言葉も、感性も━━。そしてあなたは感じることができる、実存的に━━。

引用元:『瞑想━祝祭の芸術(アート)』著者/和尚ラジニーシ 発行所/(株)メルクマール

引用文の一番最後に出てくる「感じる」という言葉に着目してください。引用文の文脈から考えてこの「感じる」という言葉が「感性(フィーリング)と切り離された感じること」を意味しているのは明らかでしょう。

瞑想法の第一ステップの解説の中で使用されている「感じる」という言葉が「感性(フィーリング)と切り離すことのできない感じること」を指しているのとは対照的ですよね。まとめると、こうなります。

・引用文の一番最後に出てくる「感じる」=感性と切り離された感じること。

・瞑想法の第一ステップの解説に出てくる「感じる」=感性と切り離すことのできない感じること。

このように、前出の講話の中でオショーは、「感じる」という同じ言葉に二つの異なる意味を持たせて使い分けているわけです。

オショーが示唆した「感性と切り離された知覚」の存在

一般的には「感じる」と言えば、感性の発動・働きを指している、というか、それ以外のものを指すことはないので、「感性と切り離された感じること」という言い回しに混乱される向きもあるかもしれません。

そういう方は、それを「感性と切り離された知覚」という風に言い換えてみられたらよいでしょう。基本的な意味に違いは生じませんが、そうすることで混乱はなくなると思います。

ここで皆さんの心に留めておいていただきたいのは、オショーがこの講話の中で「感性と切り離された知覚」の存在を示唆している点です。オショーはこの講話を通して、「感性と切り離された知覚」が私たちの中にはあるんだよと言っているんですね。

私はよく「真我は見るものである」という話をしますが、その真我の見る働きというのはここに言う「感性と切り離された知覚」のこと、言い換えれば一般的な意味における「感じること」が含まれていない知覚のことに他なりません。

中島タローでした。

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