続々・「悟りシーン」のブルーオーシャン

真我、それはこの世界の全てが消え失せてもなお残る何か

“「悟りシーン」のブルーオーシャン”とその続編を読まれた方であれば、ここで何の説明もなしに次のようなことを申し上げても、違和感なく受け止められるのではないでしょうか。

目に見える領域も、目に見えない領域も含めて、この世界の全てがたった今消え失せてしまったとしても、なおその後に残る何かがある。それが真我だ。

この世界の目に見えない領域を真我と捉えておられる方々、もしくはこの世界の目に見える領域と目に見えない領域の両方を真我と捉えておられる方々からすると、異端の真我観に映ることでしょうが、私は真我を前述のようなものとして捉えています。

つまり私の真我観によれば、真我とは目に見える領域と目に見えない領域から成るこの世界の全てを超えたところに在るものなんですね。

真我の存在が浮き彫りになるのは全てが忘却された時

また私は真我というものを、次のようなものとしても捉えています。

世界の全て、および自分が知覚したこと、気づいたこと、認識したこと、理解したこと、把握したこと、洞察したこと、感じたこと、体感したこと、実感したこと、見たこと、体験したこと……これら全てを忘れた時、その存在が浮き彫りになるのが真我である。

今羅列したものたちというのは言い換えれば、真我にあらざるものたちです。だから、私たちがその全てを忘れると真我というものの存在が浮き彫りになるわけです。

これを前回・前々回の記事に出てきた喩えを使って説明するなら、スクリーン上の映像が全て消え失せるとそれを見ていた者の存在が浮き彫りになるようなものだと言えます。

で、真我の存在が浮き彫りになると、悟りは射程距離の中にあります。

中島タローでした。

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