続・「悟りシーン」のブルーオーシャン

2019-01-02

真我と同一視されやすい「スクリーン上の映像」たち

前回お話ししたことのおさらいになりますが、私たちがその存在を指し示したり思い描いたりすることのできるもの、あるいは私たちにとっての対象物、これを仮にスクリーン上の映像だとしますと、真我(本当の私)とは観客席からそれらを見ている観客のような存在だと言えます。

真我の別名として「見る者」とか「知覚者」とか「気づきの意識」といった呼び名が使われることがあるのは、そこから来ています。これら三つの呼び名はもちろん、同じ一つのものを違ったニュアンスで捉えたものに他なりません。

そしてこれも前回の話の繰り返しになりますが、くだんのスクリーン上の映像の中には、真我と同一視されやすいもの、すなわち潜在意識、不可視の波動の領域、クォンタムフィールド、ワンネス、生命の源、暗在系、さらには宇宙、といったものも含まれています。

悟りと同一視されやすい「スクリーン上の映像」たち

が、ここで、以上の話に対する補足として申し上げておきたいのは、くだんのスクリーン上の映像の中にはさらに、悟りと結びつけられやすい次のようなものまで含まれている、ということです。私たちに起こる何らかの知覚、気づき、認識、理解、把握、洞察、感覚(心の感じる働き)、体感、実感、ヴィジョン、そして体験。

こういう悟りと結びつけられやすいものもまた、くだんのスクリーン上の映像のお仲間なんですね。それというのも、こういったものもまた私たちにとっての対象物に他ならないわけですから。

ピンとこないという方のために少し補足しておきますが、こういったもの、すなわち認識や知覚や気づきなどが私たちに起こった時、私たちはそれらがそこにあることを知ることができます(当たり前の話ですが)。象徴的に申せば、私たちはそれらの存在を「指さす」ことができます。それらもまた私たちにとっての対象物だというのはそういう意味です。

それらが悟りと結びつかない理由がお分りでしょうか。その理由は、悟りはくだんのスクリーン上の映像とはまるきり無縁なところで起こるものだから、別の言い方をするなら、悟りは真我が真我自身に気づく(真我自身を知覚する)という真我の中だけで100パーセント完結してしまう事柄だから、ということになります。

二種類ある知覚や気づき

さて、真我の別名として使えるものの中に「知覚者」とか「気づきの意識」とかがあるという話を先ほどいたしましたが、これは、真我に起こる知覚や気づきが存在するということを意味しています。が、この真我に起こる知覚や気づきというものは当然ながら、(今取り上げた)くだんのスクリーン上の映像のお仲間である知覚や気づきとは区別されなければなりません。

どちらも「知覚」あるいは「気づき」という同じ言葉で表現できることから両者は混同されがちですが、真我に起こる知覚や気づきと、くだんのスクリーン上の映像のお仲間である知覚や気づきが同一のものであるわけがありません。後者は言い換えれば「心に起こる知覚や気づき」のことだからです。

後者は「心に起こる知覚や気づき」のことでもあるので心の働きである「感じること」と不可分の関係にあります。というよりそれらは「感じること」そのものを指しています。「感じること」とそれらは同義なんですね

それに対して、前者すなわち真我に起こる知覚や気づきの中にはその心の働きである「感じること」が含まれていません。真我に起こる知覚や気づきと「感じること」とは関係がないわけです。言うまでもなく真我と心は別物だからです。

真我に起こる知覚・気づき&心に起こる知覚・気づき

ということで、真我に起こる知覚や気づきは「感じること」を意味しない知覚や気づき、それに対して、心に起こる知覚や気づき(くだんのスクリーン上の映像のお仲間である知覚や気づき)は「感じること」と同義の知覚や気づき、ということになります。

こんな話をしますと、「感じること」を意味しない知覚や気づきなんてものが本当に存在するのか? と疑われる向きもあるかも知れませんが、どういうわけか存在するんですね、これが。

・真我に起こる知覚や気づき=「感じること」を意味しない知覚や気づき=私たちが「これだ」とその存在を指し示したり、思い描いたりすることのできない知覚や気づき=誰もが知っているわけではない知覚や気づき。

・心に起こる知覚や気づき=「感じること」と同義の知覚や気づき=私たちが「これだ」とその存在を指し示したり、思い描いたりすることのできる知覚や気づき=誰もが知っている知覚や気づき。

こんな風に整理しておいてください。

悟り、それは思考によっても感じることによっても到り得ない何か

さて繰り返しになりますが、真我が真我自身に気づく(真我自身を知覚する)ことを悟りといいます。が、前述のように、その真我における気づき(知覚)の中には「感じること」は含まれていません。なので、悟りの中にもまた「感じること」は含まれていないことになります。何かを感じることが悟りなのではないんですね。

もし仮に悟りが何かを感じることであったとしたら、悟りというものもまたあのスクリーン上の映像のお仲間ということになり、くだんの悟りの定義に矛盾してしまいます。

前回名前を出した某氏の影響もあるのか、思考によっては悟りには到れない、という人は多いのに対して、感じることによってもまた悟りには到れない、という人はほとんど見かけませんが、正確に申せば、思考によっても感じることによっても到り得ないのが悟りというものなのです。

中島タローでした。

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