瞑想系身体動作法(12)「方法無き方法」Ⅷ

悟りに繋がる在り方としての「今に在ること」

前回は「今に在ること」に絡む話をさせていただきましたが、ここではそれに対する補足として「今に在ること」の何たるかをもう少し細かく見てみたいと思います。

悟りに関心のある人たちの間では、「今に在ること」は悟りに繋がる在り方であることがよく知られていますが、まず明確にしておきたいのは、悟りに繋がる在り方としての「今に在ること」の意味です。

その意味を一言で申せば、心を過去にも未来にも向けないこと、となります。つまり、悟りに繋がる在り方としての「今に在ること」というのは、「心を過去にも未来にも向けないこと」とイコールなんですね。

一般的な意味における「今に在ること」

次に考えてみたいのは、「今に在ること」というものを「悟りに繋がる在り方としての」という形容詞抜きで考えた場合でもやはり、「今に在ること」と「心を過去にも未来にも向けないこと」はイコールになるのか? という点です。

結論から申しますと、そうなるという見方も、そうはならないという見方も、両方成り立つことになります。どちらの見方もアリなんですね。「悟りに繋がる在り方としての」という形容詞が抜けた分だけ、「今に在ること」の意味の幅が広がるわけです。

前出の、「今に在ること」と「心を過去にも未来にも向けないこと」はイコールにならないという見方の根拠は次のようなものです。

心を過去に向ける行為も、心を未来に向ける行為も、今においてしかなされ得ない。言い換えれば、私たちが心を過去や未来に向けることができるのは今だけである。それは取りも直さず、私たちは心を過去や未来に向けている時でも今に在ることができているということに他ならない。ゆえに、「今に在ること」と「心を過去にも未来にも向けないこと」はイコールにならない。

ただし繰り返しになりますが、このような見方が成り立つのはあくまでも、「悟りに繋がる在り方としての」という形容詞抜きの「今に在ること」について考えた場合、言い換えれば一般的な意味における「今に在ること」ついて考えた場合のことです。悟りに繋がる在り方としての「今に在ること」というのは常に必ず、「心を過去にも未来にも向けないこと」を意味しているのだということをお忘れなく。

「方法無き方法」の実践で悟りに繋がる在り方としての「今に在ること」が可能になる理由

ところで皆さんは、「方法無き方法(方法無き身体動作法)」の実践によって、その悟りに繋がる在り方としての「今に在ること」が可能になる理由がお分りでしょうか。

その理由を一言で申せば、次のようになります。私たちが「方法無き方法」を実践している時というのは、過去を向いたり未来を向いたりする心そのものが脇に置かれているから。

「方法無き方法」に過去を向いたり未来を向いたりする心そのものを脇に置く効果がある理由につきましては、前回までの記事を通して述べておりますので、ここでは繰り返しません。

中島タローでした。

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