瞑想系身体動作法(10)「方法無き方法」Ⅵ

2018-11-15


「方法無き方法」の実践中は身体動作と私の間に距離がない

前回も申し上げましたように、私たちが「方法無き方法」すなわち「方法を先に立てない身体動作法」を実践している時には、身体動作と私(自分)の間に距離が存在しません。言い換えれば、身体動作と私が一つになっています。

これは裏を返せば、私たちが「方法付き身体動作法」すなわち「方法を先に立てる身体動作法」を実践している時には、身体動作と私(自分)の間に距離が存在するということでもあるわけですが。

では、身体動作と私の間に距離がなくなり両者が一つになることによってもたらされるものは何かといいますと、大きなところで次の二つがあります。「身体動作をする主としての私の消失」および「心的な時間の停止」。ひとつづつ、詳しくご説明しましょう。

身体動作をする主としての私の消失

まず「身体動作をする主としての私の消失」についてですが、「方法無き方法」の実践時にのみそれが起こり、「方法付き身体動作法」の実践時にはそれが起こらない、ということは次のことを意味しています。

「身体動作をする主としての私」は、身体動作と私の間の距離が存在しない時には居ない、それが存在している時には居る。つまり、「身体動作をする主としての私」が居るか居ないかはひとえに、身体動作と私の間の距離が存在するかしないかにかかっているというわけです。

身体動作と私の間に距離がなくなり両者が一つになることによってもたらされるものの一つとして、「身体動作をする主としての私の消失」を先ほど挙げましたが、その背景には以上のような事実があります。

そうしますと問題は、「身体動作をする主としての私の消失」後、私と入れ替わる形で身体動作をする主は一体誰なのか? ということになるわけですが、その答えは真我に他なりません。身体動作をする主としての私が消失した後、私の代わりに身体動作をする主の座につくのは真我なんですね。「方法無き方法」が真我発身体動作法たり得るのは、そのためです。

心的な時間の停止

さてそれでは次に、身体動作と私の間に距離がなくなり両者が一つになることによってもたらされるもう一つのもの、すなわち「心的な時間の停止」について説明させていただきます。まずは、ニサルガダッタ・マハラジの本から拾った次ぎの一文をお読みください。

・マハラジ「……動きを止めなさい。すると時間は止まる。」

・質問者「時間が止まる? それはどういう意味でしょうか?」

・マハラジ「過去と未来が、永遠の今のなかで溶けあうのだ。」

引用元:『私は在る ニサルガダッタ・マハラジとの対話』翻訳:福間厳/発行所:(株)ナチュラルスピリット社

この時間が止まることについてのマハラジの説明はそのまま、私の言う「心的な時間の停止」についての説明たり得ています。つまり私の言う「心的な時間の停止」というのは、マハラジの言葉を借りて申せば、過去と未来が永遠の今のなかで溶けあうことなんですね。

上記の会話の中でマハラジは、動きを止めることでこの心的な時間の停止状態になれると教えているわけですが、ここに言う「動き」という言葉を「身体動作」という意味に取る限りでは、マハラジのその教えにも例外があることになりますね。なぜなら前述の通り、私たちは「方法無き方法」の実践によって身体動作という名の動きを止めることなく心的な時間の停止状態になれるのですから。

ちなみにこの心的な時間の停止状態というのは、また違った角度から捉えると、今だけがある状態という風に表現することもできます。ここに言う心的な時間の停止状態とは、今だけがある状態のことでもあるのです。

中島タローでした。

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