瞑想系身体動作法(9)「方法無き方法」Ⅴ

「方法無き方法」の対立概念である「方法付き身体動作法」

「方法無き方法」もしくは「方法無き身体動作法」の何たるかをよく理解するためにここで、それとは真逆の身体動作法について考えてみたいと思います。それとは真逆の身体動作法とは言うまでもなく「方法付き身体動作法」のことです。より詳細に申せば「特定の方法を先に立てる身体動作法」とか「特定の方法によって先導する身体動作法」といったものになります。

「方法付き身体動作法」に付きものの自分と身体動作の分離

さて、皆さんはご存じでしょうか。誰であれこの「方法付き身体動作法」で身体動作をしている時というのは、自分と身体動作との間に心的な距離が存在している、ということを。

自分と身体動作との間に心的な距離が存在している、というのは言い換えれば、自分はコチラにあり身体動作はソチラにある、という構図がそこにある、ということです。もっと簡単に申せば、自分と身体動作がピタリと一つになっていない、ということです。

ピンとこないようでしたら、その「方法付き身体動作法」というやつを実際にやってみられることをオススメします。身体動作の種類は何でも構いません。例えば、手の上げ下げといったものでもOKです。そしてその身体動作を先導するための方法の種類も何でも構いません。例えば、さりげなく自然にといったものでもOKです。

試してみればお分りになるはずですが、その「方法付き身体動作法」をやっている時私たちは、ソチラ(自分から離れたところ)にある身体動作をコチラから観察しています。自分はコチラ・身体動作はソチラ、という構図がそこにはあるんですね。

自分と身体動作の分離の原因は方法

では、そこにおいて自分と身体動作を二つに分けているものは一体何でしょうか? その答えは既にお察しのように、「方法」に他なりません。そこで身体動作を先導するために用いられている方法が、自分と身体動作を二つに分けているわけです。

その証拠に私たちは、「方法付き身体動作法」ならぬ「方法無き身体動作法(方法無き方法)」で身体動作をしている時、自分と身体動作の間に距離を感じることはありません。そこでは両者が二つに分かれておりません。これも、実際にやってみればお分りになることです。

以上の消息を視覚的なイメージで理解したかったら、サンドイッチを思い浮かべてみられるといいでしょう。ご存じのようにサンドイッチは、二枚のパンとその間に挟まっている具でできていますが、ここに言う二枚のパンは自分と身体動作の象徴で、その間に挟まっている具は「方法」の象徴です。

そのように意識しながらサンドイッチを思い浮かべてみると、自分と身体動作を分離させているものは「方法」に他ならないことが右脳にスッと入ってくると思います。二枚のパンの間に具が挟まっていることが二枚のパンを分離させる原因になっているのと同じように、自分と身体動作の間に「方法」が介在していることが前者と後者を分離させる原因になっている、というわけです。

おもしろいのは、その「方法」というやつの中身が例えば「自分と身体動作を分離させないようにしつつ身体動作をする」とか「身体動作と一つになりきって身体動作をする」いった類のものであったとしても、今申し上げた事実は変えられないということです。だって中身がどうであれ、「方法」は「方法」ですから。要するに、身体動作と一つになることを求めるのであれば、そのことさえも方法化するなという話。

自分と身体動作の分離の原因は心だとも言える

ところで前述のように、自分と身体動作を二つに分けているものは何か? という問いに対する答えは「方法」ということになるわけですが、この問いには実はもう一つ正解があります。「心」というのが、それです。自分と身体動作を二つに分けているものは心とする見方も、これはこれで間違っていないんですね。言い換えれば、先ほどの話に出てきたサンドイッチの具の部分を心の象徴と見なすこともできないではないということ。

それというのも、私たちが身体動作をしている時、「方法の使用」と「心の出番を作ること」とはワンセットになっているからです。両者がワンセットになっていると言えるのは、その時、私たちが何らかの方法を使用することは心の出番を作ることに他ならず、逆に私たちがいかなる方法も使用しないことは心の出番を作らないことに他ならないからです。方法の使用は心によってなされるという点を理解できていれば、この話は難しくないと思います。

ということで、自分と身体動作を分離させるものは、表から見ると「方法」だと言えますが、裏から見ると「心」だとも言えるわけです。

中島タローでした。

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