瞑想系身体動作法(7)「方法無き方法」Ⅲ

「方法無き方法」の効果を感覚的に知るための最良の手ヅルと言える墨線

「方法無き方法」すなわち「いかなる方法も先に立てない身体動作法」にどんな効果があるのかを頭でではなく感覚的に知る上で、一番いいと思われるのはやはり、前にも申し上げましたように、筆ペン(墨筆でもOK)で紙に文字を書くことに対して「方法無き方法」を用いてみることです。

そうすれば、「方法無き方法」の用い方に問題がなければという前提は当然つきますけれど、墨線すなわちそこに書かれた文字の線を見ることによって私たちは、「方法無き方法」の効果を感じ取ることができます。より詳細に申せば、墨線から醸し出される趣きや味わいに接することによって私たちは、「方法無き方法」が運筆時の自分の内面や身体動作の有りようにもたらした変化を感じ取ることができます。

こんな話をしますと、「方法無き方法」を用いて引かれた墨線って一体どんな趣き・味わいなの? といった声が聞こえてきそうですね。それに対する返事は、御自分で実践してお確かめください、の一言で済ませることもできますが、強いてそこに言葉を足すとすれば、その趣き・味わいには無心でなければ出せない美がある、となるでしょうか。

「方法無き方法」を用いて引かれた墨線の趣き・味わいというのは、抽象的な言い方ではありますが、「無心でなければ出せない美」あるいは「無心によってのみ実現可能な美」を宿した趣き・味わいなんですね。

皆さんにはぜひ、実践を通して御自分の目でそのことを確かめていただきたいと思います。

墨線と同じような役立て方ができないこともないタイコの音

ところで、前述のような見ることを通して「方法無き方法」の効果を感じ取るやり方というものがある一方で、聞くことを通して「方法無き方法」の効果を感じ取るやり方というものも実はあります。例えば、「方法無き方法」を用いてたたかれたタイコの音を聞くことによって「方法無き方法」の効果を感じ取るというのも、その一つです。

このやり方をとった場合は当然ながら、墨線ならぬタイコの音の趣き・味わいが「方法無き方法」の効果を私たちに象徴的に示してくれることになります。

ただ、このタイコの音を通して「方法無き方法」の効果を感じ取ることと、紙に引かれた墨線を通して同じことをすることとを見比べてみた場合、後者よりも前者の方が難度がとても高いということが言えます。その理由の最たるものは、タイコの音は紙に引かれた墨線とは異なり瞬時にして消えてしまう定めにある、という点にあります。

紙に引かれた墨線であれば、すぐに消えてしまうものではありませんので私たちは、何度でも、好きな時間だけそれに接することができます。それに対してタイコの音の場合は、鳴ったその瞬間だけしか私たちは接することができません。だから、前述のようなことが言えるわけです。

それでも、墨線と同じようにタイコの音というものもまた「方法無き方法」の効果を感じ取るための手ヅルの一つたり得るということは、参考のために知っておかれるといいでしょう。

とあるタイコのお師匠さんとその弟子入り志願者の話

ここで話は変わりますが、ここまで読んでこられた皆さんであれば説明しなくてもお察しいただけるのではないでしょうか。人がたった一回たたいたタイコの音を聞いて、それが「方法無き方法」を用いてたたかれたタイコの音なのか否かを即座に判別することの難しさを。

どうしてこんなことを申しあげたかといいますとね、かつての日本に、そういう難しいことが簡単にできた人物が居たらしいのですが、その人物にまつわるある興味深いエピソードをこれからご紹介したいからなのです。

私がそのエピソードを知ったのは、かなり昔ある書物を通してでしたが、ここからの話はそこに書かれてあったことを思い出しながら、そして分かりやすくするための脚色・アレンジをほどこしながらのものになりますので、細かいレベルでの正確さに欠けるところはあるでしょう。が、大筋は間違ってないはずです。この話で大事なのは大筋だけなので、そこのところよろしくお願いします。では、行きましょうか。

くだんの人物が生きておられた時代は江戸期で、されていたお仕事はタイコのお師匠さんです。そんな彼のもとにある日、一人の弟子入り志願者があらわれたんですね。これがエピソードのはじまりです。この弟子入り志願者を仮にAと呼ぶことにいたします。

A「お師匠さん、私を弟子にしてください。」

師匠「弟子にしてやってもいいが、そのかわり条件が一つある。」

A「条件とは何でしょうか?」

師匠「そこのタイコを一回だけ、たたいてみせてほしい。君の素質を調べるためだ。その音を私が気に入ったら、弟子入りを許してあげよう。」

師匠からのこんな要請を受けて、Aはそこにあったタイコを一回たたきました。

師匠「ダメだ。音がよくない。だから、君を弟子にすることはできない。」

A「そう言われても私にはあきらめがつきません。弟子にしていただくために、私にできることはなんでしょうか? 教えてください。 何でもやります。」

師匠「それならば、明日から毎日、先ほどと同じようにタイコを一回だけたたきにここにきなさい。その音を私が気に入った時が、あなたの弟子入りが許される時だ。」

まあ言うなれば、一日一回の、そしていつ終わるかも分からない「タイコのたたき方テスト」をAはお師匠さんに課せられたわけですね。もちろん江戸期の日本にテストなんて言葉があるわけはないですが……。

ということで翌日から、その「タイコのたたき方テスト」を受けるため お師匠さんの元に通いはじめたAなのでしたが、どうしたものでしょうか、五日が過ぎ、十日が過ぎ、二十日が過ぎても、お師匠さんからの色よい返事をもらえません。

A「これだけやってもお師匠さんから色よい返事がもらえなかったということは、自分にタイコの素質がなかったということだ。ならば弟子入りのことはもうあきらめよう。今となっては何の未練もない。でも一つのけじめとして、明日もう一回だけお師匠さんのところに行ってタイコをたたき、別れを告げてくるとしよう。」

その翌日。Aが最後にするつもりでたたいたタイコの音が鳴り響きました。

師匠「ああ、いい音だ! 今日からあなたは私の弟子だ。」

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皆さんは、以上のエピソードをどのように受け止められたでしょうか。いずれにしても、これを読まれた皆さん全員の目に少なくとも一つだけ明らかなのは次のことであるはずです。弟子入りを許された日のAのタイコのたたき方と、その前日までのAのタイコのたたき方は違っていた。

ここで問われるのは、では前者と後者の間にはどのような違いがあったのか? という一点です。これは前出のエピソードの眼目でもあります。前出のエピソードをご紹介する前の私の言葉から、既に察しはついておられるかも知れませんが、この問いに対する私からの回答はこうなります。

前者は、「方法無き方法」に合致するタイコのたたき方だった。つまり、いかなる方法にものっとらないタイコのたたき方だった。それに対して後者は、「方法無き方法」に合致しないタイコのたたき方だった。つまり、何らかの方法にのっとったタイコのたたき方だった。そういう違いが、前者と後者の間にはあった。

ちなみに、ここに言う「何らかの方法にのっとったタイコのたたき方」というのは例えば、「自分らしくやる」とか「余念なくやる」とか「気持ちでやる」とか「デーンと構えてやる」といった特定の指針に沿わせるタイコのたたき方も含んでいます。で、そういうのが一切ないのが「方法無き方法」だというわけです。

前出の回答に関する解説は、敢えてこれ以上はしないでおきましょう。皆さんが最も解説を求めておられるであろうことつまり、何故あのような回答を導き出せるのかということにつきましては、皆さん自身で考えていただきたいのです。

中島タローでした。

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