瞑想系身体動作法(5)「方法無き方法」Ⅰ

「方法無き方法」とは何か?

瞑想系身体動作法というカテゴリーに含まれる三つの技法すなわち「方法無き方法」「過去断ちの法」そして「瞬過去ふりかえり法」の中から今回は、「方法無き方法」に焦点を当てて話をさせていただきます。これは、真我から身体動作を起こすことを目的とした技法の一つです。

「方法無き方法」とは何か? ここでは、私が考えたこの問いに対する簡単な回答の候補をいくつか羅列しておきましょう。

・いかなる方法も先に立てずに、身体動作をする(身体動作をするにあたっていかなる方法も先に立てない)。

・身体動作を先導するための方法を一切設定せずに、身体動作をする。

・何らかの方法を先に立ててそれに従いつつ身体動作をする、という形を取らずに身体動作をする。

・「あんな風にやろう」とか「こんな風にやろう」とか、方法に意識を向ける前に(唐突に)身体を動かす。

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いかがでしょうか。これらから、「方法無き方法」の意味するものを感じ取っていただけたでしょうか。前にもどこかでお話ししましたが、この「方法無き方法」というのは技術というよりはコツなんですね。

なのでモノにできる人のパーセンテージがかんばしくなかったとしても無理はないと思います。次に取り上げる予定の「過去断ちの法(方法無き方法と目的を同じくする技法)」に関しては、純粋な技術と言えるものなので、ほぼ百パーセントの人がモノにできるはずだという確信があるのですが。

ある意味、これほどラクチンなやり方はないこの技法

とはいえ、この「いかなる方法も先に立てずに身体動作をする」ことを旨とする「方法無き方法」というのは、モノにできてしまった人たちからしてみると「これほどラクチンなやり方はない」ものであることもまた事実だろうと思います。

なぜならそこには、身に付けたり、練り上げたり、磨き上げたりしなければならない方法ってものが、そもそも無いわけですから。無い方法をどうして、身に付けたり、練り上げたり、磨き上げたりする必要があるでしょうか。あるわけありません。「これほどラクチンなやり方はない」というのはそういう意味です。

身につけたとたんに失われてしまう、この技法

ひとつ想像してみてください。もしもあなたが今、ある特定の有形の方法(有法)に基づいて何らかの身体動作をしなければならなくなったとしたら、まずその方法を身に付けるための時間が必要になりますよね。そして人間には本能的な向上心というものがありますので、それが身に付いた暁(あかつき)には、それをさらに練り上げ、磨き上げてゆく道に自ずから入ってゆくことになるでしょう。

が、前述のような「方法無き方法」=「無法」をもって身体動作をすることにおいては、そういうことが一切ありません。それどころか「方法無き方法」=「無法」というのは、少しでも身に付けた(つもりになった)とたんに失われてしまう定めにあります。どんな方法であれ身に付いたものは有法であって無法ではないからです。身についたものがどうして無法なんかであり得るでしょうか。

身についた瞬間にそれは有法になってしまいます。無法を貫くためには、私の側に身についたものがわずかでもあってはならないのです。ましてそこに、練り上げられたり磨き上げられたりしたものが、あっていいわけがありません。それゆえ「方法無き方法」を用いる場合は常に、あたかも生まれて始めてそうするかのようにそうしなければならないわけです。

今申し上げたような意味では、「方法無き方法」は悟りと共通するものがあると言えます。悟りというものもまた、「方法無き方法」と同じく、自分のものにしたり掌握したりしたとたんに失われてしまう定めにあるからです。

とはいえ説明の便宜上、「方法無き方法」を身につける、といった言い回しをすることはある

そう言えば私の記憶によりますと、前に私は、「方法無き方法」という目的語と「身に付ける」という動詞をセットで使ったことがあるかと思いますが、ここまでの話からもお分りのように、厳密に見るとそういう言葉の使い方というのは正しくありませんでしたね。が、その時は説明の便宜上、敢えてそういう言葉の使い方をさせてもらった次第です。

余談ながら悟りや真我にからむ話をする時には、このケースのように、厳密に見ると正しい言葉遣いではないということが自分でも分かっていながらその言葉遣いを敢えてする、ということがままあります。

例えば、厳密に見ると悟りは体験ではなく出来事でもないのですが、悟りのことを体験とか出来事といった言葉で表現することもあったりするわけです。もちろん、説明の便宜のためにです。あるいは話を進めやすくするためにです。

ついでだから申し添えておきましょう。悟りが厳密に見ると体験とも出来事とも言えない理由は、体験とか出来事というのは一般的に時間空間という(幻想の)枠の内側における何事かを指しているのに対して、悟りはそれの外側における何事かを指しているからです。

話を戻しますが前述のような次第で、今後においても私は、「方法無き方法」を身につけるとかモノにするとか、厳密に見ると正しいとは言えない言葉遣いをすることもあるかも知れませんが、それに対して突っ込みを入れたくなった時はぜひ、今私がお話ししたことを思い出していただきたいと思います。

具体レベルでの方法までも排除するわけではない「方法無き方法」

ところで前回私は、こんなようなことを申しあげました。「方法無き方法」など瞑想系身体動作法というカテゴリーに含まれる三法をモノにするためには(おっと、さっそく出ましたね、このモノにするという言葉遣い)、はじめのうちは筆ペンとか墨筆で紙に文字を書くことに対してそれらの技法を用いてみるのが望ましい。

筆ペンとか墨筆で紙に文字を書くこと、簡単に申せば習字のことですが、ご存じの方はご存じのように習字の世界には、「永字八法」と呼ばれる基本的な運筆法があります。が、これに関して誤解なきよう言葉を足しておきたいのは、くだんの「方法無き方法」というのはそうした運筆法までも無用のものとして排除するものではない、ということです。

「方法無き方法」の旨とするものは確かに「いかなる方法も先に立てずに身体動作をする」ではあります。が、ここに言う方法には「永字八法」のような具体レベルでの方法・目に見える世界の方法までは含まれていないのです。ここに言う方法の意味するものは目に見えない世界の方法、言い換えれば心的な方法・心の用い方・心の操作法・心構えとかのことなのだとご承知おきください。

クイズ

さて最後に、皆さんにクイズを一つ出させていただきます。関心とやる気のある方は、次の記事がUPされるまで考えてみてください。クイズの中身は次のようなものです。

「方法無き方法」によって真我発の身体動作が可能になるのはなぜか? 言い換えれば、「方法無き方法」を用いるとどうして真我から身体動作を起こせるようになるのか? ということですね。

いかがでしょうか。前に発表した『瞑想系身体動作法の背景にあるもの』という記事を読んでおられる方には、そんなに難しいクイズではないと思うのですが…。ヒントはその記事の中にあります。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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