悟りは心の置き場にはならない

心から心ではない何かへと自分が切り替わる悟り

悟りとは何か? という問いに対する答えは色々ありますが、その中の一つには次のようなものも含まれています。「自分イコール心という状態」から「自分イコール心ではない何かという状態」への切り替わり。もちろんこの答えは、自分イコール心だと思っておられる人たちを意識してのものです。

が、世の中には、彼らに比べてだいぶ少数派のような気はしますが、自分イコール心と体の両方だと思っておられる人たちもおられることでしょう。その人たちを意識するのであれば当然ながら、前出の答え次のようなものに変えられます。「自分イコール心と体の両方という状態」から「自分イコール心でも体でもない第三の何かという状態」への切り替わり。ちなみにここに言う心とは最も広い意味における心、すなわち顕在意識・潜在意識・万人共通の潜在意識すべてを含む心のことです。

悟りとは何か? という問いに対する答えとしては最初のヤツも、二番目のヤツも、どちらも有りなのですが、ここでは最初のヤツすなわち、「自分イコール心という状態」から「自分イコール心ではない何かという状態」への切り替わりをもって悟りとする悟り観に焦点を当てつつ、話を進めたいと思います。

この悟り観をもう少し噛み砕いた言い方で説明しますと、「心と同一視されていた今までの自分がどこかに消えて、心とは別の何かが新しい自分になること」といったところでしょうか。当然ながらここに言う「心と同一視されていた今までの自分」と「心とは別の何か(=新しい自分)」との間に連続性はありません。前者の進化形あるいは深化形が後者というわけではないんですね。その意味において悟りは、突然変異的なものであるということができます。

悟れば心の置き場を確保するお仕事から解放される

話は変わりますがその悟り、すなわち心から心ではない何かへと自分が切り替わることによってもたらされるものの一つは、心の置き場を確保するお仕事からの解放です。心の置き場を確保するお仕事からの解放って何? という声が返ってきそうですね。順を追ってご説明しましょう。

ここに言う心の置き場は、心の立脚点とか、心の支えになるものとか、心が拠って立つことのできるものといった言葉に置き換えても問題ありませんが、心の性質の一つにそれ無しでは存在を保てない、というのがあります。心というのはその性質上、心の置き場無しでは存在を保てないようにできているんですね。常に何らかの心の置き場を確保したがる傾向が心にあるのは、そのために他なりません。

ついでにもう一歩踏み込んだことを申し添えておきますと、その心の置き場なるものがしっかりしたものであればあるほど心はよりしっかりと自分の存在を保つことができますので、同じ心の置き場でもよりしっかりしている(ように見える)ものの方を心は好むものです。

自分即心である限り確保せざるを得ない心の置き場、逆も然り

常に何らかの心の置き場を確保したがる傾向が心にあるということは、自分イコール心の人たちすなわち未悟者にとって何を意味するでしょうか? そう、それは彼ら自身が常にその傾向を抱えているということに他なりません。そのため彼らは常に、心の置き場を確保するお仕事から解放されることがないわけです。

(※そう言えば歌詞に「心の置き場」という言葉が含まれてる歌があったよな、とフッと思い出したのがこの歌『たどりついたらいつも雨降り』。よろしかったら気分転換にお聞きください。ナツメロながら、今聞いても中々カッコイイ歌だと思います。)

しかしそんな彼らでも、悟りに到れば心の置き場を確保するお仕事から解放されます。悟りに到るということは自分イコール心ではなくなるということでもあるからです。自分イコール心ではなくなれば、心の置き場を確保するお仕事を続ける必要がなくなる、あるいはそのお仕事から解放されるのは自然な成り行きというものです。

ところでこれは私の推測ですが、悟りへの道を歩んでおられる方々の多くが悟りに期待しておられるものの一つは最も盤石でゆるぎない心の置き場なのではないでしょうか。つまり、彼らが悟りへの道を歩んでいるのは、悟りが最も盤石でゆるぎない心の置き場になってくれることを期待してのことではないのか、ということですね。

私のこの推測が当たっているかどうかは別として、悟りに対する前述のような期待は悟りのおとずれと共に、全く予期していなかった形で裏切られることになります。既に分かっておられることの繰り返しになりますが、悟りとは心から心ではない何かへと自分が切り替わることだからです。より詳細に申せば、存続のために自分の置き場を必要とする前者から、存続のために自分の置き場を必要としない後者へと自分が切り替わること、それが悟りというものだからです。

中島タローでした。