悟りの中では何も言えない何も見えない

悟り、それはこの世界の可視領域と不可視領域からの離脱

一つ前の記事では冒頭で、現在使用中の当ブログの説明文(ブログタイトルの下に記されているやつ)を取り上げましたが実は、あれの他にもいくつか、ボツにはなりましたが、私が考えた当ブログの説明文があります。その中の一つは次のようなものです。

「今住んでる世界から離脱したい人だけ、このブログにおいでなし!」

補足いたしますと、文中の「今住んでる世界」という言葉はニューサイエンスなどで言われている明在系と暗在系の両方を指しています。つまり、私たちの五感にかかる物質の領域と私たちの五感にかからない波動の領域の両方を、それは指しているということです。ちなみに私の造語では、前者を「表の領域」、後者を「裏の領域」という風に呼んでいます。

前出のフレーズを読まれた方の中には、そこで使われている「今住んでる世界」という言葉を、私の言う「表の領域」とのみ解釈された方もおられたかも知れませんが、今申し上げたように「表の領域」と「裏の領域」の両方をそれは指しているのです。

なので前出のフレーズ全体の意味は、「その両方から離脱したい人だけ、このブログを読んでちょーだい!」といったものになります。

このことからもお察しいただるかと思いますが、私が提唱している悟りによってもたらされるものの一つは、「表の領域」と「裏の領域」の両方からの離脱です。つまり、「表の領域」と「裏の領域」の両方(=今住んでる世界)からの離脱を意味してもいるのが、私の提唱する悟りなのです。

とはいえ離脱する私が居るわけではない

ところで、今住んでる世界からの離脱、という言葉を聞いて皆さんが連想されるものの一つは海面上に飛び出したトビウオの姿ではないかと推察しますが、いかがでしょうか。どちらにしても、海面上に飛び出したトビウオの姿というのは、誰にとっても分かりやすいその言葉の象徴的なイメージたり得ていると思います。

が、そう申し上げた直後にこんな話をするのもナンではありますが実は、悟りによってもたらされる今住んでる世界からの離脱というものを、海面上にトビウオが飛び出すことのようなものとして捉えてもらうと、私的には困るのです。どうしてだと思われますか?

その理由に触れる前にお話ししておきたいのは、今住んでる世界からの離脱すなわち「表の領域」と「裏の領域」の両方からの離脱には体と心の両方からの離脱も含まれている、ということです。今住んでる世界からの離脱には体と心の両方からの離脱も含まれているんですね。そう言えるのは、体は「表の領域」に属し、心は「裏の領域」に属しているからに他なりません。

で、「その理由」ですが、今住んでる世界からの離脱を海面上にトビウオが飛び出すことのようなものとして捉えてしまうと、今お話しした事実に目が向かなくなる、という点にあります。

だってそうでしょう。今住んでる世界からの離脱をそういうイメージで捉えてしまうとどうしても、今住んでる世界からの離脱には体と心の両方からの離脱までも含まれている、という事実に目が向かなくなるに決まっています。海面上に飛び出したトビウオの姿が、体と心からなるこの私を連想させるからです。

だから悟りの中では何も言えない何も見えない

さて、ということで、悟りは「表の領域」と「裏の領域」からなるこの世界からの離脱であると同時に、体と心からなるこの私からの離脱でもあるという風にも表現できるわけです。

なので悟りが起こった時、これが悟りか! 悟りとはこれのことか! という私はそこに居ないことになります。もし仮にそこに私が居たとしても、私の側から把握できる何かが見当たるわけではない(「表の領域」「裏の領域」という対象物がない)のでやはり、これが悟りか! 悟りとはこれのことか! と言えないことには変わりがありません。

中島タローでした。