瞑想系身体動作法の背景にあるもの

潜在意識も超えてる真我

「体でも心(顕在意識+潜在意識)でもない、新しい私になりたい人だけ、このブログにおいでなし!」

ご存じのようにこれは、現在当ブログのタイトルの下に記されている当ブログの説明文(将来変わるかも)です。この説明文のキモは、潜在意識さえも超えた新しい私の存在が示唆されている点にあります。この説明文からもお察しいただけるかと思いますが、多くの人に究極の私と見なされがちな潜在意識というのは本当は究極の私なのではなく、それとは別のところにそれを超える私が存在しているのです。この「それを超える私」こそは、私が真我と位置付けているものに他なりません。

ここに言うそれ、つまり潜在意識は厳密には、個人の潜在意識とその下にある万人共通の潜在意識(普遍的無意識とも呼ばれますが)に二分できますが、多くの人に究極の私すなわち真我と見なされやすいのは細かく言えば後者の方ですね。

個人の顕在意識が脇に置かれるとあらわになる個人の潜在意識

さてそれでは、ここで少し、その潜在意識も含めた私たちの心の全体像を見ておきましょう。よく知られておりますように、前出の個人の潜在意識の上には個人の顕在意識(私たちが頭で考えている時の意識)があります。つまり、私たちの心は個人の顕在意識・個人の潜在意識・万人共通の潜在意識という三つの層が上から下へと順に並んでいるわけです。

それらの中の一番浅い層、すなわち個人の顕在意識が脇に置かれるとその下にある個人の潜在意識が開いた状態になります。個人の顕在意識というのは個人の潜在意識の上にかぶさっているフタのようなものなので、そうなるんですね。個人の顕在意識という表面の地層を除去すると、その下に隠れていた個人の潜在意識という地層があらわになる、という風にイメージするとより分かりやすいかも知れません。

よく引き寄せの法則に通じた人たちが、眠りから覚めた直後のうつらうつらしている時間帯に願望実現のためのアファメーションなどの実践を勧めるのも、今お話ししたような背景があるからです。つまり、その時間帯というのは個人の顕在意識が脇に置かれているので(頭が働いてないので)潜在意識が開いた状態にあり、アファメーションなどが個人の潜在意識に入りやすい、そして個人の潜在意識に入ったものは万人共通の潜在意識に届きやすい、その結果として願望が実現しやすくなる、というのが彼らの理屈なわけです。

その事実から類推されること

この話からもお分りのように、個人の顕在意識が脇に置かれると個人の潜在意識が開いた状態になるということは精神世界という分野ではわりとよく知られた事実ですが、ここから類推されるのは、次のことです。それら二つの意識(個人の顕在意識と潜在意識)が脇に置かれると今度は、万人共通の潜在意識(普遍的無意識)が開いた状態になる。

要するに、仮に個人の顕在意識をA、個人の潜在意識をB、そして万人共通の潜在意識をCだとすると、Aが脇に置かれるとBが開いた状態になるのと同じように、A・B共に脇に置かれるとCが開いた状態になると考えられる、ということですね。

Aを脇に置いてBが開いた状態になることと、A・B共に脇に置いてCが開いた状態になることとを見比べた場合、前者よりも後者の方がはるかに難しそうではありますが、それでも以上のような見方は間違っていないと思います。難しいと不可能は違うからです。これは私の個人的な推測にすぎませんが、かつて眠れる予言者と呼ばれていたエドガーケイシー氏などは後者ができた数少ない人の中の一人だったのではないでしょうか。

では心そのものを脇に置いたらどうなるのか?

さてそれでは、今の話の延長として次に考えてみたいのは、AとBとC全部、すなわち心そのものを丸ごと脇に置いたら一体どうなるのか? ということです。

心そのものを丸ごと脇に置いたら一体どうなるのか? その答えを先に申せば、真我が顕在化いたします。Aを脇に置くとBが顕在化し、A・B共に脇に置くとCが顕在化するのと同じように、A・B・C全部をひっくるめた心そのものを脇に置くと真我が顕在化するわけです。

余談ながら現在の精神世界という分野を見渡してみますと、探求の対象として心の最も深いところにあるCに目を向ける方は数多くいらっしゃるのに、心とは別にある真我に目を向ける方が皆無に近いのは、一体どうしたものかなと思います。Cと真我は混同されやすいということが、その一番の理由なのかも知れません。どちらも個としての私を超えたものであるという点では共通しているので、そういう混同が起こりやすいんですね。

真我から身体動作を起こすための技法の表の顔は?

話は変わりますが、かつて私は「その真我から身体動作を起こすための技法」を探し求めて試行錯誤を繰り返していたことがあります。探し求めていたものは、私がそれまで積み重ねてきたものの延長ではないところに、ある日突然降って湧いたように私のもとにやってきたのですが、それを見て私は思いました。「これって表面的には、真我から身体動作を起こすための技法というよりは、心を脇に置きつつ身体動作をするための技法じゃないか」。

でも、ここまでの私の話を読んでこられた皆さんは既に察しておられますように、表面的には「心を脇に置きつつ身体動作をするための技法」にしか見えないそれが実は結果的には「真我から身体動作を起こすための技法」たり得ていたんですね。なぜなら心が脇に置かれているところには必ず真我の顕在化があるからです。つまり心を脇に置いた中での身体動作は真我以外からは起こりようがないわけです。

そうか! 真我から身体動作を起こすためには、そのこと自体を直接的に狙う必要はなかったのだ! 直接的に狙うべきは、心を脇に置いた中での身体動作だったのだ! それさえできれば真我発の身体動作は後から付いてくるようになっていたのだ! 私のもとに降りてきた「あの技法」を眺めて、私が理解したのはこのことです。

まず先にこのことに対する理解があって、そこから「あの技法」が生み出されたというよりは、先に「あの技法」があって、そこから今申し上げたような理解が生まれたというわけですね。これによっても、「あの技法」というのは、私の中にひょっこり生まれた偶然の産物であったということがお分りになるでしょう。

話が横道にそれましたが以上のようなわけで、私がこれから当ブログで披瀝しようと思っている「真我から身体動作を起こすための技法(瞑想系身体動作法)」というのは一見しただけでは「心を脇に置きつつ身体動作をするための技法」にしか見えないはずなのです。

中島タローでした。