フリーメソッド『時間を止める三ステップ』のこと

このメソッドの名称に偽りなし

『時間を止める三ステップ』という名称の、文字通り時間を止めることを目的とした当方の瞑想系オリジナルメソッドがあります。といっても、ここに言う時間とは心理的な時間すなわち心に感じられる時間のことであって、物理的な時間のことではないのですが。

ブログタイトル下のグローバルメニューから、それの解説記事にたどり着けるようになっているので、皆さんの中にはもう既にそれにトライしてみた方もいらっしゃるのではないでしょうか。まだの方はぜひトライしてみてください。「時間なんて止められるわけないじゃん!」なんてことをおっしゃらずに。

そうすれば、このメソッドの名称に偽りのないことをお分りいただけるはずです。実践の仕方に間違いがなければ、という但し書きは付きますけれども。

実践の仕方に間違いさえなければ百パーセントの確率で必ず結果が出る、そう言い切れるのがこの『時間を止める三ステップ』という瞑想系メソッドなのです。下の画像をクリックすることによっても、それの解説記事にたどり着くことができます。

心を脇に置く効果もあるこのメソッド

さて、このメソッドの実践によってもたらされるものは「時間の停止」ばかりではありません。それの中には「心が脇に置かれること」も含まれています。まあ小難しいことを申せば、「時間の停止」を別の角度から眺めると「心が脇に置かれること」とも取れる、ということでもあるのですが。

ここに言う心とは顕在意識だけを指しているのではなく、そこに個人の潜在意識・万人共通の潜在意識までも加えたもの、言い換えれば最も大きな意味における心のことです。多くの瞑想者や求道者らに真我と同一視されやすい万人共通の潜在意識も、そこには入っているわけです。

心が脇に置かれることであらわになるもの

ここで質問ですが、『時間を止める三ステップ』の実践によってその心が脇に置かれると、私たちは一体どうなると思われますか? おそらく、その状態を頭の中だけで想像する限りでは気絶したり前後不覚になったりしそうな気がするのではないでしょうか。

でも実際は、『時間を止める三ステップ』を実践済みの方は既に分かっておられますように、このメソッドの実践によって心が脇に置かれても、私たちは気絶したり前後不覚になったりいたしません。このメソッドの実践によって心が脇に置かれると、心とは別に存在する「あらゆるものに気づいている意識」があらわになるからです。

それは、心が脇に置かれるまでは心に覆い隠されているのですが、心が脇に置かれるや否や心という覆いが取れて、存在があらわになるわけです。

その、心が脇に置かれることによって存在があらわになる「あらゆるものに気づいている意識」のことをここでは、体でも心でもない第三の何かという意味を込めてサムシング・サードと呼ぶことにいたします。本当の私という意味を込めて真我と呼ぶこともできますが、それは体でも心でもない第三の何かなんだってことに思いを馳せていただくために、ここでは敢えてそういたしましょう。

そのもう一つ先にある悟り

ご注意願いたいのは、『時間を止める三ステップ』の実践によってそのサムシング・サード(あらゆるものに気づいている意識)があらわになっても、それをもって悟りとすることはできない、という点です。サムシング・サードがあらわになったからといって、それをもって悟りと位置付けることはできないんですね。

その理由は、悟りとは、それのもう一つ先にある「サムシング・サードがサムシング・サード自身に気づくという出来事」を指しているからです。私が、『時間を止める三ステップ』にもう一つのステップを付け加えたものを悟りのためのメソッドとしているのも、そのためです。

それでもこれが一つの独立したメソッドたり得る理由

とはいえ、これは裏を返せば次のことを意味してもいます。サムシング・サードがあらわになった時私たちは少なくともその悟りの一つ手前まで来ている。その意味では、サムシング・サードがあらわになったということは得がたい価値のあることなのです。

それに、『時間を止める三ステップ』の実践によってそのサムシング・サードがあらわになっている時というのは、あらゆる心理的な苦の源である心が脇に置かれています。あらゆる心理的な苦は心あってのものだと言えますが、『時間を止める三ステップ』の実践によって私たちはその心を脇に置くことができるわけです。

私がこのメソッドを一つの独立したメソッド、それだけでも取り組んでみる価値のあるメソッドとして皆さんにおススメするのは、それがあるからに他なりません。

中島タローでした。