真我・垂直の次元の意識10〈悟りって何?補足編〉

※この記事は『真我・垂直の次元の意識6〈悟りって何?編〉』の補足です。

当方の悟りの定義のおさらい

私が用いる真我の別名の一つに「真我という名の目」というのがあることからもお察しいただけますように、真我には見る働きがあります。ではその真我は何を見るのかと言いますと、例えば私たちの目や耳に入るものとか、私たちの心に生じる思考・イメージ・感覚(心の感じる働き)といったものです。早い話が、私たちがその存在を認識できるもの全てを真我は見るのです。

そうしますと、例えば私たちが目(顔についてる目)で何かを見ている時というのは、その目と真我という名の目の二つを使ってソレを見ていることになりますね。たとえ自分にその自覚がなくても、そういうことになるわけです。

で、『真我・垂直の次元の意識6〈悟りって何?編〉 』でもお話ししましたように、そんな真我が真我自身を見る出来事のことを私は悟りと呼んでいます。当方の定義では悟りとは、真我が真我自身を見る出来事のことなのです。

当方の悟りの定義に逆行する物言い

とはいえ私は、悟りを説く人たちの中に今の私の話に逆行することを言う人たちが居ることも承知しています。今の私の話に逆行することとは次のようなものです。目は目自身を見ることができないのと同じように、真我は真我自身を見ることはできない。

目は目以外のものなら何でも見れるが自分自身(目自身)だけは見ることができない、それと同じ理屈で、真我は真我以外のものなら何でも見れるが自分自身(真我自身)だけは見ることができない、詳しく言えばこういうことですね。まるで当方の悟りの定義と矛盾するかのごとき物言いです。

この物言いに対する私の見解

この物言いに対する私の見解はこうです。この物言いの中で使われている「見る」と、当方の悟りの定義において使われている「見る」は意味が異なる。だから、この物言いと当方の悟りの定義は矛盾しない。では、前者と後者はどのように意味が異なるのでしょうか。それを、これから見てみましょう。

簡単に申せば、前出の物言いの中で使われている「見る」は「対象化を伴う見る」です。それに対して、当方の悟りの定義において使われている「見る」は「対象化を伴わない見る」です。

もう少し掘り下げてみましょう。ここに言う「対象化を伴う見る」は、離れた位置から、あるいは指差し確認できる位置(象徴的な表現ですが)からモノを見ることです。それに対してここに言う「対象化を伴わない見る」は、全く離れてない位置から、あるいはモノと全く同じ位置からモノを見ることです。クリシュナムルティが「見るものは見られるものだ」という言葉で言い表した消息がそこにはあります。

それゆえ、前者は一般的な意味における「見る」、あるいは誰でも意味が分かる「見る」、後者は特殊な意味における「見る」、あるいは悟りに到った時はじめて意味が明らかになる「見る」、という風にも言えるわけです。これは、悟りの何たるかは悟りが起こってはじめて明らかになると言われる所以でもあります。

当方の悟りの定義と「あの手の物言い」に矛盾を感じておられた方は、このように受け止めておいてください。

余談

今回の本題は以上ですが、最後に余談を一つ。

お分かりの方はお分かりのように、当方の悟り観というのは現在の悟りシーンにおける一般的な悟り観とは相容れないというか接点がありません。ここに言う一般的な悟り観とは大まかに申せば、私に起きる何らかの出来事、つまり例えば、この私が何かを感じたり体感したり実感したり見抜いたり思い出したり、何かに気づいたり、何かを腑に落としたりする出来事をもって悟りとする観方(みかた)のことです。

当方の悟り観には「この私」が登場しないことからも、当方の悟り観と前述のような悟り観は逆行しているとも言えますので、このような場での当方の悟り観の披瀝は結果的に、前述のような悟り観を提唱しておられる方々ひとりひとりに対する攻撃の要素も含むことになってしまいます。

私にそのつもりはなくても、つまり私的にはあくまでも一般論として当方の悟り観を披瀝したつもりではあっても結果的に、そういうことになってしまうのは避けられないわけです。「いや、そんなつもりじゃなかったんですけど…」などと言い訳しても、中々通らないでしょう。

そこのところどうしたものかな……なとど思っている今日この頃であります。

中島タローでした。