真我・垂直の次元の意識9〈二つの超個の領域編〉

2018-06-01

心の一番深いところにある私を超えた領域

私の見立てでは、個としての私を超えた領域は二つあります。で、その中の一つは、私たちの心の一番深いところにあります。まずはこれについて見てみましょう。

ご存じの方はご存じのように、私たちの心は、一番浅いところに顕在意識があり、その下に個人の潜在意識があり、その下に万人(万物)共通の潜在意識があるという形になっています。これら一つ一つには別の呼び名もあるようですが心というものが、一番浅い層、一番深い層、そしてその中間の層という、三つの層に大別できることだけは確かです。

その心の三つの層の関係を視覚的なイメージで把握するための方法の一つは、心全体を私たちの手に喩えてみることです。心全体を私たちの手に喩えた場合、顕在意識はその指の先端(爪のある部分)に当たり、個人の潜在意識はその下から指の付け根までに当たり、万人共通の潜在意識は手のひらに当たるという見方もできるでしょう。

ひとつ、そのような視点でご自分の手をながめてみてください。私たちは限られた視野の中では個々別々かつ離れ離れに存在しているかのように見えても本当は、万人共通の潜在意識という一つのものの中で繋がっているということが、視覚的にたやすく理解できると思います。

一般的に個としての私を超えた領域と言えば、この万人共通の潜在意識を指していることは皆さんご同意いただけるでしょう。私の感想では、個としての私を超えた領域として、これ以外のものを連想できる人って今のところ皆無に近い気がします。あくまでも今のところですが。

そう言えばここ数年来、ノンデュアリティーという言葉が精神世界という分野で急速に浸透しておりますが、それっていうのは前出の万人共通の潜在意識の世界を表す言葉なのかなと思います。私はノンデュアリティーに関する大まかな知識しか持ち合わせていないので断定できませんが、私の見た限りでは、どうもそのようですね。

もし仮にそうだとしたら、ノンデュアリティーというのは私の言う悟りとは関係のないものだということになってしまいます。なんだって!? という声が返ってきそうですが、私の見立てでは悟りとは、次に取り上げる「心の外側にある領域」の覚醒のことだからです。

心の外側にもある私を超えた領域

さて、この心の外側にある領域というのはお察しの通り、万人共通の潜在意識に次ぐ二つ目の、個としての私を超えた領域に他なりません。ここからは、その話です。

万人共通の潜在意識とここに言う心の外側にある領域の違いの一つは、私たちから見て、前者が心というなじみのあるものの内側(奥深く)に存在しているのに対して、後者は読んで字のごとく、心というなじみのあるものの外側に存在している、ということです。

前者も後者も、個としての私を超えたものであるという点では共通していても、そういう決定的な違いがあるわけです。私たち日本人から見ると、外国人も宇宙人も日本人ではないという点では共通していても両者は全然別物だという話とこれは似ています。

その心の外側にある領域なるものは別の角度から眺めると、心と体に次ぐ自分を成り立たせている第三番目の何か、という風にも表現できます。が、それでいて、その心の外側にある領域なるものは、仮に私たちから心と体を取り除いたとしてもなおその後に残る何かだとも言えるのです。「ということは心と体の二つが私のすべてではないということか」と思われたかも知れませんが、まさにその通りなわけです。

なので、あくまでもSF的な架空の話にすぎませんが、仮にこの世界のどこかに私たちの心と体を同時に消滅させる装置なんてものがあったとして、その装置にかけられた人がいたとしても、彼または彼女の心の外側にある領域だけは消滅せずに残ることになります。それどころか、そのことによって彼または彼女の心の外側にある領域があらわになるので、悟りすなわち「心の外側にある領域の覚醒」が起こりやすくなると言えます。

その領域をあらわにするには心を脇に置くだけでよい

こんなヨタ話しをいたしますと、「そうすると私たちは、悟るためには心と体の両方を消滅させる必要があるわけか?」てな感想が返ってきそうですが、そうではないのでご安心ください。

何故そうではないと言えるのか? それは、心と体の両方ではなく、心を消滅させるだけでも、私たちの心の外側にある領域はあらわになるからです。つまり、心の外側にある領域をあらわにするために私たちに求められるのは、心を消滅させることだけであって、心と体の両方を消滅させることではない、ということですね。先ほどの例え話にとらわれすぎてはいけません。

もっと踏み込んだ話をしますと、ここに言う「心を消滅させること」は「心を脇に置くこと」に置き換えることができます。後者で前者を代用できるわけです。後者の方が前者より難度が低いので助かりますよね。言うまでもなく「心を消滅させること」と「心を脇に置くこと」とでは共通点があるとはいえ意味は違います。が、それでも私たちは心を脇に置くことによって、心を消滅させた時と同じように、心の外側にある領域をあらわにすることができるのです。そしてそれができれば、悟りはもう射程距離の中にあります。

で、悟りに到った後は基本的に、心でも体でもない第三の何かとして生きてゆくことになります。詩的に言えば、心と体を脱いだ者として生きてゆくことになります。が、自分が希望すれば再び「自分イコール心」の状態にもどることは可能です。これに関する話はまた別の機会にいたしましょう。

ちなみに、超効率的に心を脇に置くためのメソッドとして使えるものに、当方が開発した『時間を止める三ステップ』、および『過去断ちの法(当ブログでも後日公開の予定)』の二つがあります。よろしかったらぜひ活用してみてください。

悟りと関係があるのは心の外側にある領域だけ

ここまでの話を通してシッカリお分りいただけたと思いますが、個としての私を超えた領域には実は「心の一番深いところにある領域」と「心の外側にある領域」の二つがあり、現在の精神世界の通念とは裏腹に、悟りと関係があるのは認知度が超高い前者ではなく、認知度が超低い後者なのです。

さて以上のような次第で、当方の基準では、心の外側にある領域のことをご存じない方は悟者として認められないということになります。たとえその人が、悟りの何たるかを詳細に語れる人であったとしてもです。

例えば、その人はこんなことを言うかも知れません。「本当の私(真我)は常に今ここに在る 今ここを離れたどこか遠いところにそれを探し求める必要はない」とか「見るものと見られるものは一つだ」とか「自他の区別も 大小の区別も 過去未来の区別もない」とか。

これらのフレーズ自体に間違いはありません。悟者の言葉として通用します。が、それにも関わらずその人は心の外側にある領域のことをご存じない可能性もあります。もしそうであれば、その人は悟者ではないということになるわけです。

おもしろいのは、前出のようなフレーズは、心の一番深いところにある領域のことを語る人も、心の外側にある領域のことを語る人も同じように口にする、という点です。言い換えればあの手のフレーズというのは、聞いただけではどちらの領域のことを語っているのか判断しにくいということでもあります。

悟りが心の一番深いところにある領域と関係のある出来事のように誤解されやすいのは、こんなところにも原因があるのではないでしょうか。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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