真我・垂直の次元の意識8〈全空間が私の眼編〉

2018-05-29

全空間大の真我という名の眼

真我という名の眼、という呼び名は、真我の見る働きを強調したい時私が用いる真我の別名の一つです。『真我・垂直の次元の意識〈前編〉 』をお読みの方は既に分かっておられますように、その真我という名の眼は大きさが全空間に及んでいます。厳密さを期すならば、「全空間に及んでいます」というよりも、「全空間に及んでいてなおかつそれに対して垂直な方向にも及んでいます」と言うべきなのでしょうが、いずれにしてもその真我という名の眼が、この空間の内側に存在する大きさに限りのあるものではでないということだけは間違いありません。

悟りにて真我という名の眼に取って代わられるこの私

で、悟りとは、この私が、その真我という名の眼に取って代わられる出来事として捉えることもできます。私の場合、「悟りとは真我という名の眼が自分自身を見る出来事である」という風に申し上げることが多いですが、見る角度によっては悟りをそのように捉えることも可能なのです。同じものでも見る角度によって違った捉え方が可能であることは皆さんご存知の通りですが、悟りとてその例に漏れるものではないわけです。

悟りとはこの私が真我という名の眼に取って代わられる出来事である、なんてことを申しますと、皆さんは次のような問いを持たれるかも知れません。では、真我という名の眼に取って代わられたこの私は一体どこへ行くのか?

答えを先に申せば、真我という名の眼にとって代わられたこの私は消えて無くなります。いや本当は、消えて無くなるのは「この私は存在している」という錯覚の方なので、次のように訂正しておきましょう。真我という名の眼にとって代わられたこの私は本来の無に帰ります。

悟りでも真我と出会えぬこの私

悟りの中では、真我という名の眼にとって代わられたこの私は本来の無に帰り、真我という名の眼が新しい私になるわけです。覚えておいていただきたいのは、ここに言うこの私と真我という名の眼は同時にあらわれることができない、ということです。言い換えれば、前者があらわれている時後者は見当たらなくなり、後者があらわれている時前者は見当たらなくなる、ということですね。そういう背景があるので悟りの中では、この私が本来の無に帰らないまま真我という名の眼が新しい私としてあらわれるなんてことは万に一つもないわけです。

もっと言えば、そういう背景があるということは、この私が真我という名の眼を感じるとか、体感するとか、実感するとか、理解するとか、発見するとか、以前から知ってたものとして思い出すといったことなども、万に一つも有り得ないということでもあります。

そういうことを悟りであるかのようにおっしゃる向きもあるようですが、いただけませんね。「悟りとは真我が真我自身を見ることである」という私の常套句からもお分りのように、悟る主体はあくまでも真我それ自身であってこの私ではないのですから。

全空間が私の眼になる悟りの境地

話は変わりますが冒頭でも触れましたように、悟りの中で新しい私として出現する真我という名の眼の大きさは全空間に及んでいます。なので悟り以降は、私イコール全空間大の真我という名の眼、ということにもなるわけですが、いにしえのとある覚者はそのあたりの消息を次のように表現しておられます。

「尽十方界、是れ沙門の眼(じんじっぽうかい これしゃもんのめ)」

これは、中国の宋の時代の僧侶であった長沙招賢大師(ちょうしゃしょうけんだいし)という方が遺された言葉のようです。

出だしの「尽十方界」という言葉は四方八方に上下を加えた十方向のすべてに広がる領域というほどの意味なので、「全空間」と意訳できます。そして、それの後に出てくる「沙門」という言葉は僧侶という意味なので「僧侶である私→私」と意訳できます。従って前出の「尽十方界、是れ沙門の眼」という言葉は次のように言い換えることも可能です。

「全空間が私の眼だ」

いかがでしょうか。「私イコール全空間大の真我という名の眼」という先ほどの私の言葉と少しニュアンスは異なりますが、深いところでは同じことを言っているのがお分りいただけると思います。悟りの境地とは、全空間が私の眼になる境地のことでもあるのです。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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