真我・垂直の次元の意識7〈真我で見るとは?編〉

2018-05-29

真我は見る者である

真我は見る者である、というフレーズは悟り系発信者である私の決まり文句の一つです。ここに言う「見る者」という言葉が時と場合によって例えば、「見る意識」「目撃者」「目」「知覚者」「観照者(観察者)」「気づく者」「気づきの意識」「気づき」といった、同じ意味を持つ(同じ意味を持たせ得る)別の言葉に置き換えられることはありますけれども。

だが真我は感じる者ではない

今羅列した言葉の中に「感じる者」という言葉が含まれていないのは、私の恣意やど忘れによるものではありません。こう申し上げればもうお分かりでしょうが、ここに言う「見る者」という言葉は「感じる者」という言葉とは置き換えができません。つまり私が「真我は見る者である」と言う場合、このフレーズに含まれる「見る者」は「感じる者」という意味にはならないんですね。角度を変えて申せば、「真我で見る」イコール「感じる」ではないということでもあります。

私がこのように申し上げる裏には、私たちが何かを感じている時感じていることを見ている者が真我なのだ、という理解があります。

とはいえ、同じ「真我は見る者である」というフレーズでも、私以外の悟り系発信者が発する場合、そこに含まれる「見る者」という言葉は「感じる者」を意味していることがほとんどのようです。世の多くの悟り系発信者に信奉されている、彼らの親玉的存在とも言えるドイツの某氏(あえて名前は申しません)が「真我で見る」イコール「感じる」という見解の持ち主であることからも、私のその見立ては間違ってないと思います。

そんな中にあって、「真我で見る」イコール「感じる」ではないという私の見解が浮いてないということはないでしょう。浮いて浮いて浮きまくっているのではないでしょうか。

ついでだからグチを言わせてもらいますが、そういう少なくとも現時点では珍しい見解の持ち主である私は、真我で見るということの意味を人様に伝えようとする時、大いなる困難に見舞われることになります。なぜなら、そのためにどれほど言葉を尽くしたところで、「これのことか!」「これがそうか!」といった納得の返事をもらえる可能性はゼロもしくはゼロに近いと言えるからです。「思考はもとより感じることさえも含まれていない見ること」というのはそれだけ、つかまえどころがないということですね。

「感じること」を意味する「見ること」には、つかまえどころがあります。それに対して、「感じること」を意味しない「見ること」には、つかまえどころがありません。これでは大半の人が、「真我で見る」イコール「感じる」という解釈に落ち着きたがるわけです。

こんな話をしますと、あらゆる悟り系発信者の中で「真我で見る」イコール「感じる」ではないという見解の持ち主はアンタぐらいのものではないのか? この仲間はずれめ! てな突っ込みを入れたくなる向きもあるかも知れませんが実は、そういう見解の持ち主が私の他に少なくともあと一人はいらっしゃるんですね、これが。

オショーがその人です。私の知る限りではオショーこそは、「真我で見る」イコール「感じる」ではないということを、著作の中でハッキリ分かるように述べている唯一の人物だと言えます(オショーだけが本物の覚者だと言っているのではありませんよ)。

同じ見解でも、一人しか言う人が居ないってのと、少なくとも二人言う人が居るってのとでは、アピール度に天と地ほどの開きが生じるのでこんな話をさせてもらいました。一人と二人の違いは単数と複数の違いでもあるのでそういう開きが生じるんですね。それとこの話を通して、世に覚者(悟者)と見なされている人たちの真我や悟りに関する見解は全て一致しているわけではない、ということにも思い到っていただければと思います。

感じることなく見ることで顕在化する真我

話を戻しますが先述のようなわけで、くだんの「真我は見る者である」というフレーズをより詳細かつ私の真意が伝わりやすいように言い換えるとしたら、「真我は感じることなく見る者である」といったものになります。真我とは私たちの中にある「感じることなく見る者」のことだ、というわけです。

従って私たちが何らかの対象、例えば目に映る景色とか耳に入る音とかを感じることなく見ている時というのは、真我を顕在化させ得ている時でもあると言えます。つまり私たちにとって、何らかの対象を感じることなく見ることと真我を顕在化させることとはイコールなんですね。

真我の顕在化から悟りまでは後一歩

で、悟りとは真我が真我自身を見るという出来事のことを言うのですが、私たちが、何らかの対象を感じることなく見ることによって真我の顕在化に成功しますと私たちは、その悟りの一歩手前まで来たことになります。真我の顕在化に成功したら、その悟りまではあと一歩というわけです。まず先に真我の顕在化があって、その後に悟りすなわち真我が真我自身を見るという出来事が待っているのだ、という風にお考えください。前者と後者が同時に起こることもないではありませんが、基本的にはそういう形になっております。

この事実からも、悟りへの途上にある方々にとって、何らかの対象を感じることなく見ることができるようになることが、まず最初にめざすべきゴールであることがお分りになるでしょう(私は今、ゴールという言葉を便宜的に用いております)。

純粋知覚という呼び名

話は変わりますが以上のような次第でこれから、悟りへの途上にある方々のために、「何らかの対象を感じることなく見ること」の何たるかをもう少し掘り下げてみたいと思います。が、その前に一つお断りしておきますが、これ以降は話を進めやすくするためにその「何らかの対象を感じることなく見ること」を純粋知覚という短い言葉で呼ぶことにいたします。

当ブログが開設される前からの私の読者さんは、あれ、それって即覚(そっかく)と呼ぶのではありませんでしたっけ? と思われたかも知れませんが、ここでは敢えて、そうは呼ばずに純粋知覚と呼ぶことにしたいのです。その方がとっつきやすそうな気がしますから。ちなみにこの純粋知覚という呼び名、今後ともずっと当ブログの中で使ってゆく予定ですので、しっかり覚えておいてください。

びっくりしながら見ている時、感じることなく見ている

さて、ここに言う純粋知覚の意味がまだ今イチ飲み込めないという方は、誰でも過去に一度や二度はあったはずのあの手の体験を思い出してみられたらよいでしょう。あの手の体験というのは簡単に申せば、意外なタイミングで全く想定してなかったものに出くわすという体験のことです。つまり例えば、あくまでも話を分かりやすくするための有り得ない例えですが、道を歩いている時上からいきなり全身紫色のタコがフワフワと舞い降りてきた、というような体験のことです。タコというだけでも十分想定外なのに…と突っ込まれそうてすね。

もし仮に実際に、あなたの身にそんなことがあったとしたら、どうでしょうか。あなたの過去に一度ぐらいはあったはずのそれに類する体験あるいはそれに近い体験を思い出しながら、考えてみてください。きっと同意してくださるはずですが、どんな人でも実際に自分の身にそういうことがあった場合には、心が一時的にどこかに消えうせてしまうほどびっくりいたします。人は本当にびっくりすると、心が一時的にどこかに消えうせてしまうというか、脇に置かれてしまうものなんですね。

そう言えば、日本語ではびっくりすることを「魂消る(たまげる)」と表現することもありますがこれは、私たちが本当にびっくりした瞬間には魂つまり心がどこかに消え失せている、あるいは脇に置かれている、ということから来ているのだそうです。

で、私たちがあるモノを見てびっくりして心が脇に置かれている時というのは、私たちはそれについて考えることはもとよりそれを感じることさえもできません。具体的に申しますと例えば、先ほどの例え話に出てきたような状況下では、私たちは全身紫色のタコについて考えることはもとより、それを感じることさえもできません。考えることと同じように感じることもまた心の動きなので(粗野であるか微妙であるかの違いはあるとしても)、当然と言えば当然の話ですね。

ちなみにあのオショーは、考えることと感じることの共通点を次のように説明しています。

考えることは極めて粗野な行動だ。感じることは微妙な行動だ

出典:「信心銘(124ページ)」著者/ラジニーシ 訳者/スワミ・パリトーショ 発行所/(財)禅文化研究所

ここに言う「行動」を「心の動き」と意訳してみれば、先ほどの私の話と同じことが述べられていることが見て取れるでしょう。

繰り返しになりますが、このオショーの話からもお分りのように、考えることも感じることも心の動きであるという点では変わりがないので、私たちがあるモノを見てビックリして心が脇に置かれている時というのは、私たちはそれについて考えることもそれを感じることもできないものなのです。

びっくりがいくらかでも去った後であれば、私たちはそれを感じることができます。しかし、びっくりの真っただ中にある時の私たちにはそれができません。この辺の見極めは大事です。

ということで、純粋知覚の意味すなわち「感じることなく見ること」の何たるかをまだ今イチ飲み込めてない方は、自分が過去に体験した先ほどの例え話のような出来事を思い出してみれば、理解の助けになるのではないでしょうか。

感じることなく見る=真我で見る

さて、ここまで純粋知覚の意味を噛み砕いて説明してきましたが、今あらためて押さえておきたいのは、その純粋知覚の状態というのはそのまま「真我でモノを見ている状態」でもある、ということです。ここからは、それについて考えてみましょう。

純粋知覚の状態とは言い換えれば「モノを感じることなく見ている状態」ですが、これがそのまま「真我でモノを見ている状態」でもある、というのはどういうことでしょうか。分かりやすく申せば、例えば先ほどの例え話における「全身紫色のタコを感じることなく見ている状態」がそのまま「真我でそのタコを見ている状態」でもあるということです。

くだんの「全身紫色のタコを感じることなく見ている状態」がそのまま「真我でそのタコを見ている状態」でもあるというこの話、あなたは受け入れることができるでしょうか。思いますにあなたが未悟者であれば、間違いなく百パーセントの確率でそれを受け入れることができないでしょう。なぜなら未悟者には、その「全身紫色のタコを感じることなく見ている状態」というのは「単に肉眼に全身紫色のタコが映っているだけの状態」としか捉えられないはずだからです。

しかし、未悟者からすると単に肉眼に物が映っているだけにしか見えないその状態こそは実は、悟者に言わせると、真我で物を見ている状態以外の何ものでもないのです。

それに関する悟者の言い分はこうです。ある物を感じることなく見ている時というのは、感じるというのとはまた違った意味において、それの色や形を知覚している何者かが私の中に居る、それが真我だ。

先ほどの例え話に出てきた全身紫色のタコを引き合いに出して言い換えると、こうなります。全身紫色のタコを感じることなく見ている時というのは、そのタコの紫の色合いやクニャクニャした形を、感じるというのとはまた違った意味において知覚している何者かが私の中に居る、それが真我だ。

このような話をしますと、感じるというのとはまた違った意味において物の色や形を知覚するってどういうこと? という声が返ってきそうですね。それを言語化するのは難しいですし言語化しても意味がなさそうですが、強いて言語化するとすれば、物の色や形を感覚(心の感じる働き)というフィルターを通す前にただ知ること、といったところでしょうか。「ただ知ること」という部分がミソですね。私がそれを純粋知覚と呼ぶのは、思考や感覚という混ざりものが一切含まれてない知覚という含みを持たせるためです。

悟者にだけ分かるその事実

で、それができている状態こそが真我で物を見ている状態であることが体験的事実として分かるのは悟者だけです。未悟者はそれができている状態にはなれるものの、言い換えれば真我で物を見ている状態にはなれるものの、その状態が真我で物を見ている状態であるというそのことを知らないままなのです。

とはいえ、真我で物を見ている状態になれたということは悟りの一歩手前までは来れたということでもあるので価値があります。私たちが真我で物を見ている時、真我という名の目は当然ながらその物を捉えていますが、その真我という名の目が何かの拍子に自分自身を捉えてしまうことがあります。不思議と言えば不思議な出来事ですよね。私たちの顔についてる目には起こり得ない出来事です。それが、私の言う真我が真我自身を見るという出来事すなわち悟りに他なりません。

その悟りが起こってはじめて真我で見るということの意味が体験的事実として明らかになります。私じゃないところでです。なので、悟りが起こる前の段階で「ああ、こういうことか」みたいな感じでその意味を把握できたつもりに、もしもあなたがなった時には頭を冷やしてください。

物と一つになっている真我という名の目

ところで、どこかで既にお聞きになったことがあるかも知れませんが、私たちが真我で物を見ている時というのは物とそれを見ている真我との間に分離がありません。最後にその話をしておきましょう。

「物とそれを見ている真我との間に分離がありません」というのは言い換えれば、見られている物はアチラにあり見ている者(真我)はコチラに居る、という構図がそこには無いということです。それは、見られるものと見るものがピタリと一つになっている、ということでもあります。真我という名の目は見ている物に釘付けになっている、と申し上げればもっと分かりやすいでしょうか。

それに対して私たちが物を感じている時というのは、物とそれを感じている者(心)との間に分離があります。物を感じるためには引いた位置から物を観察する必要があるために、そうなるんですね。ただしそれは微かな分離です。多くの人がその存在を見落としてしまうほどの微かな分離です。でも、そこに分離があるという事実は動きません。またまたオショーの登場ですが、そのあたりの消息を彼は次のように述べています。

考えれば、離れている。感じれば、それほど離れてはいないが、まだ分離している。寄り添ってはいるが、まだ分離している。

出典:「信心銘(414ページ)」著者/ラジニーシ 訳者/スワミ・パリトーショ 発行所/(財)禅文化研究所

思いますに、オショーがここで伝えようとしていることを理解している人が少ないことも、「真我で見る」と「感じる」が混同されやすい要因になっているようです。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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