真我・垂直の次元の意識〈悟りって何?編〉

観るものだけが存在する

観る(見る)ものだけが存在する……皆さん、これ誰が言った言葉かお分りになりますか? 実はこれ、あの今は亡きオショーが言った言葉なのです。どの本のどのページに載っていたかはすっかり忘れてしまいましたが、この一つの言葉だけは妙に覚えておりました。

読んだ時は意味が分からなかったのですが、何かとても重要なことが述べられているらしいことだけは感覚的に分かったので心に残っていたのだと思います。

今回の記事(次の見出しからはじまる記事)を後で読み返してみて気づいたことは、この記事が「観るものだけが存在する」というくだんの言葉の意味の解説にもなっていたということです。別に狙っていたわけではないんですけどね。

なので、その言葉の意味が今お分りにならない方でも、今回の記事を読み終えられたころには「ああそういうことか」となるのではないでしょうか。そんなことも楽しみにしながら、お読みいただければと思います。

真我と私たちの目や耳に入るモノの位置関係

あなたが『真我・垂直の次元の意識〈前編〉』を読んでおられることを前提にお話ししますが、あそこでも述べられておりますように、私たちの目や耳に入るモノを仮に一枚の写真の中の映像だとしますと、真我はその写真の上に置かれたガラスの立方体のようなものだと言えます。

繰り返しになりますが、ここに言う写真とは私たちの目や耳に入るモノが存在している場所の象徴、言い換えれば縦・横・高さからなる空間の象徴です。空間という立体的なものをここでは把握しやすいように、写真という平面的なものに置き換えているわけですね。

で、その空間の中からではなく外側から、より正確に申せばその空間に対して「垂直」な方向から私たちの目や耳に入るモノを見ている者、もしくはそれらに気づいている者、それがくだんのガラスの立方体に象徴される真我ということになります。

真我は私たちの真の主体と呼ばれることもありますが角度を変えて申せばそれは、この三次元空間の外側から、私たちの目や耳に入るモノを見ている主、あるいはそれらに気づいている主のことでもあるのです。このあたりの消息をまだよく飲み込めてない方は、『真我・垂直の次元の意識〈前編〉』をもう一度読み返してみてください。

波動の在りかでもあるこの空間

さてこの三次元空間というのは、前述のように私たちの目や耳に入るモノの在りかですが、より広い視点で捉えると、私たちの目や耳に入ることのない波動の在りかなのでもあります。私たちの目や耳に入ることのない波動の在りかもまた、この三次元空間なんですね。

なので、これまで話を複雑にしないためにあえて触れずにきましたが、私たちの五感にかからない波動というものもまた、私たちの五感にかかるモノと同じく、先ほどのたとえに出てくる一枚の写真の中の存在だということになります。

私たちの五感にかかるモノ(物質)も私たちの五感にかからない波動も共に、先ほどの喩えに出てくる一枚の写真の中の存在であるという点ではお仲間なんですね。この事実からも、私の言う真我が、波動とは別物であることがお分りいただけると思います。

真我と波動はこれほど違う

仮に、くだんの一枚の写真に象徴される領域を「水平の次元」と呼び、くだんのガラスの立方体に象徴される領域を「垂直の次元」と呼ぶとしますと、波動は「水平の次元」の存在で、真我は「垂直の次元」の存在ということになります。波動と真我の違いは水平と垂直の違いでもあるのです。それぐらい、両者は違うってことですね。

一般に真我と波動は結びつけて考えられがちですが、本当は両者の間には、そういう根本的な違いがあるのだということを銘記しておいてください。

では悟りとは何か?

話は変わりますがここで、「先ほどの喩え」を使って、悟りとは何か? ということについて説明させていただきます。悟りの何たるかを「先ほどの喩え」を使って説明すると次のようになります。 写真上のガラスの立方体がガラスの立方体自身(つまり自分自身)に気づくこと。

悟りの何たるかを普通に説明すると「真我という気づきの意識が真我という気づきの意識それ自身に気づくこと」という風になりますが、同じことを「先ほどの喩え」を使って説明すると「写真上のガラスの立方体がガラスの立方体自身に気づくこと」という風になるわけです。

悟りの中で明らかになること

で、その悟りが発生した時、次のことが明らかになります。本当に存在しているのは、真我だけであり、物質も波動も本当は存在していない。「先ほどの喩え」を使って言い換えるなら、本当に存在しているのはガラスの立方体(=真我)だけであり、写真の中の映像(=物質+波動)は本当は存在していない、ということになります。

このように申し上げると、物質が本当は存在してないという話はよく聞くけれども物質と同じように波動もまた本当は存在してないという話は聞いたことがない、そんなベラボーな話があるものか!てな感想を持たれたかも知れません。というより、ほとんどの方はそのように思われたであろうと推察されます。

なのでこの記事の最後に補足として、物質と同じように波動もまた本当は存在していないと言える根拠を説明させていただこうと思います。今説明しないの? という声が聞こえてきそうですが、今それをやると話がトグロを巻いてしまいますからね。

次の見出しに行く前にもう一度押さえておきますが、本当に存在しているのは真我(=ガラスの立方体)だけ、物質と波動(=写真の中の映像)は本当は存在していない、ということが悟りの中で明らかになります。

どこに焦点を当てるかで違ってくる悟りの捉え方

①悟りの中で、本当に存在している唯一のものであることが明らかになる真我
②悟りの中で、本当は存在していないことが明らかになる物質と波動

もしも私が今誰かに、悟りの状態がどういうものなのかを問われたとしたら、焦点を①に当てている場合と焦点を②に当てている場合とでは当然ながら、その答えは違ってきます。

焦点を①に当てている場合であれば、その答えは例えば、「それは超高密度な実体で満たされている状態だ」とか「それは、在るが極まった状態だ」といった類のものになるでしょう。一方焦点を②に当てている場合であれば、その答えは例えば、「空っぽで何も無い状態だ」とか「無いが極まった状態だ」といった類のものになるでしょう。

焦点を①に当てているか②に当てているかで、その答えが真逆のものになることがお分りいただけると思います。このように申し上げると、では焦点を①と②の両方に当てている場合はその答えはどんなものになるのか? という声が返ってきそうですが、そうした場合私であれば、例えば「何も無い中に何かがある状態だ」とか「全てが消去されたその後に絶対に消去され得ない何かが残っている状態だ」といった答え方をするかも知れません。

そういえば『同じもの見てない覚者たち』という記事の中でご紹介したスティーブン・ノーキスト氏などは「宇宙は空っぽで命のかけらも無い…」といった言い回しで悟りの中で見えるものを説明しておられましたね。彼の場合は焦点を①に当てていたと考えられます。

いずれにしても以上のような次第で、悟りの状態あるいは悟りの中で見えるものについての説明は、焦点がどこに当たっているかによって違ってくるわけです。

補足・物質も波動も本当は存在していないと言える根拠

今回の本題は以上ですが、先ほどお話ししたように最後に補足として、物質も波動も本当は存在していないと言える根拠を説明しておきましょう。

まず申し上げたいのは、物質であれ波動であれ、存在することが可能な唯一の時間は今だということです。物質であれ波動であれ、もしもそれが存在しているとしたら、今をおいて他にはないということですね。過去は既に無く未来はまだ無いことを考えると、そのように言わざるを得ません。

では、今とは何でしょうか。結論を先に申せばそれは、何かが存在するために必要不可欠な時間の幅を持たない過去と未来の境目です。過去と未来の境目である今に時間の幅が存在しないのは、例えば一本のヨウカンを二つに切り分けた時にできる切れ目に長さが存在しないのと同じです。

ピンとこない方は、流れる時間を一本の線ならぬ一本のヨウカンになぞらえて考えてみてください。流れる時間を一本のヨウカンになぞらえた場合、今とはそのヨウカンを二つに切り分けた時にできる切れ目のようなものであって、ヨウカンを限りなく薄くスライスしたようなものなのでは決してありません。時間という名の一本のヨウカンを限りなく薄くスライスしたものを今と見なしておられた方は、ここで考えを改めてもらう必要がありますね。

ヨウカンの極薄のスライスには微かながらも長さがあるのに対して、ヨウカンの切れ目には長さがありません。このことが分かれば、今には時間の幅が存在しないということもまたお分りになるはずです。今には何かが存在するために必要不可欠な時間の幅ってものがが存在しないんですね。

従って、次のような三段論法が成り立ちます。
①物質であれ波動であれ存在することが可能な唯一の時間は今である。
②が、その今は何かが存在するために必要不可欠な時間の幅を持たない。
③ゆえに、物質も波動も本当は存在していない。

もちろんかく言う私とて、物質や波動が「存在しているかのように見える」という事実までは否定しません。しかし、「存在しているかのように見える」と「本当に存在している」は違います。私がここで申し上げているのは、物質や波動は存在しているかのようには見えはするが、前述のような理由から本当は存在していないと言い得る、ということなのです。

さてこのような話をしますと、皆さんの中には次のような疑問を持たれる向きもあろうかと思います。それならば、物質や波動が本当は存在していないと言い得るのと同じ理由によって、真我もまた本当は存在していないと言い得るのではないか?

要するに、次のような三段論法も成り立つのではないか? ということですね。
①真我が存在し得る唯一の時間は今である。
②が、その今は何かが存在するために必要不可欠な時間の幅を持たない。
③ゆえに、真我は本当は存在していない。

でも実は、この三段論法だけは成り立たないのです。先ほどの三段論法は成り立つとしても。何故だか分かりますか? 解説が不可能なので解説抜きで答えだけを申しあげますが「それは、真我の別名が今だからです」。

真我の別名が今であるということは言い換えれば、今の正体は真我だということですね。ひっくりけーるかも知れませんが、今というものの正体は実は真我という実体あるものだったのです!悟りに到ればこのことが頭や理屈や私を超えたところで明らかになります。非常に大きな話なので、これに関してはまた別の機会にも触れたいと思います。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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