真我・垂直の次元の意識〈前編〉

2018-01-13

 

まずはじめにお断りしておきますが、これから前編・中編・後編に分けてお届けする記事たちは、他のブログなどで公開済みのいくつかの記事の抜粋を寄せ集め、ツギハギして作成したものです。まあ、ある意味、手抜きをしちゃってるとも言えますね。

文の追加や添削・修整などがほどこされている箇所もあるとはいえ、元記事の原型はおおむね保たれておりますので、これを読みながら元記事を思い出される方もおられるのではないでしょうか。そういう方は、おさらいのつもりでこれをお読みいただければと思います。

真我の大きさは空間を超える

 真我という見る意識、という呼び名は、真我に備わる「見る意識」という側面を強調したい時に私が使用する真我の別名です。この呼び名からもお分りいただけますように、真我には色々なものを見る働きがあります。色々なもの、というのは具体的に申せば、私たちの目や耳に入るものとか、私たちが心に抱く思考・感情・イメージ・フィーリングといったもののことです。要するに真我には、私たちがその存在を認識しているものを見る働きがあるということです。

さて、それではここで質問ですが、皆さんは真我という見る意識が見ることのできるものの中で最も大きなものは何だと思われますか? 東京ドームだとか、皇居だとか、俺んちの庭だとか、言わないでくださいね。

 皆さんに答えを聞いて回るわけにも行かないので早速申し上げますが、その答えは、空間です。真我という見る意識が見ることのできるものの中で、大きさにおいて空間に勝るものはありません。どうしてこんな話をしたのかと言いますと、その空間を見ることのできる真我という見る意識はそれよりも大きい、ということに思いを馳せていただきたいからです。

空間を見ることのできる真我という見る意識は空間よりも大きい。その意味を、今は亡きインドの覚醒者オショーは次のようにうまく説明してくれています。(※文中の「見る者」「目撃者」という箇所は私の言う「真我という見る意識」に置き換えてお読みください。)

 ・大空を見れば、その空は広大だ。だがそれを見る者、目撃者はもっと大きい。さもなくて、どうしてその空を見ることができよう。……。見る者は見られる者より大きくなければならない。それしかありようはない。
・あなたは空間を見ることができる。あなたは時間を見ることができる。それなら、あなたの中にいるこの見る者は、その両方より大きいのだ。
出典:「信心銘(414ページ)」著者/ラジニーシ 訳者/スワミ・パリトーショ 発行所/(財)禅文化研究所

悟りのぶっ飛んだ側面

空間よりも大きい真我という見る意識、その真我という見る意識が自分自身を見るという出来事のことを悟りと言います。それを考えると、悟りというものがいかにぶっ飛んだものであるか、お察しいただけるのではないでしょうか。

もちろん悟りには、よく言われておりますように、ごく当たり前のことという側面もあることはあります。が、前述のような意味でのぶっ飛んだ側面もまた悟りにはあるのです。ごく当たり前のことという側面とぶっ飛んでいるものという側面、この相反する二つの側面を併せ持つのが悟りなんだってことですね。

空間の外側に視点を持つ真我という見る意識

 話は変わりますが、ひょっとしたら皆さんの中には、今の話を読まれて次のような疑問を持たれた向きもあるかも知れません。

真我という見る意識は一体どの位置から我々の目に映るモノなどを見ているのか?

どうでしょうか。そう言われてみればハッキリと意識してなかったけど、無意識のレベルでそういう疑問を持っていたかも……なんて方もおられるのでは。いずれにしてもここからの話は、意識的にせよ無意識的にせよ前述のような疑問を持っておられた方たちに向けてのものです。

真我という見る意識は一体どの位置から我々の目に映るモノなどを見ているのか?

この問いにお答えするために、まずはこんな話から入らせていただきましょう。

我々の目に映るモノ、あるいは我々が認識しているモノを仮に一枚の写真上の映像に例えるとしたら、真我という見る意識はその写真の中のどこかからではなく、それの外側から写真上の映像を見ていることになります。この例え話に出てくる一枚の写真というのは、この空間(我々の認識の中にあるこの空間)の象徴であり、この例え話によって私が伝えたいのは次の事実です。

真我という見る意識はこの空間の中のどこかからではなく、この空間の外側から我々の目に映るモノなどを見ている。

垂直の次元という概念

 「この空間の外側」というのをより具体的に言い直すと、「この空間に対して垂直な方向」となります。「この空間に対して垂直な方向」ですね。

真我という見る意識は「この空間に対して垂直な方向」から、我々の目に映るモノなどを見ているわけです。

これについては、人が写真上の映像を見ている時その目はどの位置にあるか考え合わせてみると、合点がゆくのではないでしょうか。
人が写真上の映像を見ている時その目は当然ながら、写真の真上つまり写真に対して垂直な方向にありますよね。それと同じように、我々の目に映るモノなどを見ている時の真我という見る意識もまたこの空間に対して垂直な方向にある、というわけです。

一枚の写真(二次元)に対する垂直な方向は誰でもイメージできるが、この空間(三次元)に対する垂直な方向は誰にもイメージできない、ということもあって、「そんなものの存在」を信じられないという向きもあるかも知れませんが、最近はなんとなんと物理学の世界でも、余剰次元などという言葉を使って「そんなものの存在」に言及する学者が出てきていることを付け加えておきましょう。

そう言えばオショー(ラジニーシ)は真我の在りかを「垂直の次元」と表現することがありましたが、その「垂直の次元」という言い回しは、前出の“この空間に対して垂直な方向”にある領域を指している、という風にも見ることができます。まあ、その言い回しに関しては他の解釈もできることはできるのですが、そういう見方も可能であるということですね。

“この空間に対して垂直な方向”にある領域、という意味合いもその「垂直の次元」という言い回しから見て取れますので、その点を踏まえてこれからは、真我の別名の一つに「垂直の次元の意識」というのを加えることにしたいと思います。

私としては、この真我の別名の一つである「垂直の次元の意識」というネーミングを通して、あなた方に次のことに思いを馳せてもらいたいのです。真我という見る意識はこの空間に対して垂直な方向に存在しており、その位置から我々の目に映るモノなどを見ている。

現実離れして現実に密着してもいる真我という見る意識

ところでこういう話をいたしますと、真我という見る意識がいかにも我々の日常生活からかけ離れた存在であるかのような印象を持たれかねませんけれども、そうとばかりは言い切れません。

そうとばかりは言い切れないのは何故か? 真我という見る意識は、私たちが今目にしているモノなどとピタリと一つにもなっているからです。言い換えれば、私たちが今目にしているモノなどに「釘付け」にもなっているからです。

悟りに到った人は花を見れば花になり、山を見れば山になる、といったことがよく言われますが、この手の話にもそのことが示されています。

そこに着目すれば、真我という見る意識は私たちの日常生活とまるきり接点が無いわけではないことに思い至るでしょう。この空間に対して垂直な方向に存在していると同時に、私たちが今目にしているモノなどとピタリと一つになってもいるもの、それが真我という見る意識なのです。より抽象的に申せば、現実離れしていると同時に現実に密着してもいるもの、それが真我という見る意識なのです。

その消息を視覚的なイメージで理解する手立て

このあたりの消息を視覚的なイメージで理解したかったら、先ほどの話に出てきた一枚の写真の上にガラスの立方体が立っているところを想像してみてください。ガラスの立方体の底面と写真は同じ大きさで隙間なく重なっていること、という点に留意しながら。

ここに言う一枚の写真がこの空間の象徴なら、その上に立っているガラスの立方体はもちろん真我という見る意識の象徴に他なりません。

このガラスの立方体が、「写真上の映像とピタリと一つになっていること」と「写真に対して垂直な方向にあること」の二つを同時に満たしているのはお分りいただけると思います。ちょうどそれと同じように、真我という見る意識は、「我々の目に映るモノなどとピタリと一つになっていること」と「この空間に対して垂直な方向にあること」の二つを同時に満たしている、というわけです。

 

2018/1/10
中島タローでした

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