同じもの見てない覚者たち

究極の領域と悟り

人間が最後の最後に到達できる「もうこの先はない」と言える領域、もしくはあらゆるものに先立って存在する領域、それのことを仮に「究極の領域」と呼ぶといたしますと、人が悟りに到った時「究極の領域」とおぼしきものの存在が頭や理屈じゃないところで明らかになる、ということに異論を挟む方はおられないだろうと思います。

悟りとは何か、ということに関しては色々な捉え方方があるでしょう。が、悟りの中では「究極の領域」とおぼしきものの存在が頭や理屈じゃないところで明らかになる、というそのことに異論を挟む方はおられないはずです。

少なくとも私は、悟りには到ったけれどいまだに何が「究極の領域」なのかは不明なままです、なんてことを言う人など見たことも聞いたこともありません。もっと言うとそれ以前の問題として、何が「究極の領域」なのかは不明なままに自分の到ったその状態を悟りと認定してしまうような、そんなトンチンカンで厚かましい人がいるとも思えません。

というわけで、「究極の領域」とおぼしきものの存在が頭や理屈じゃないところで明らかになることと、悟りはセットになっていると見なすことができます。

人によって違うこともある究極の領域

さて、そこまではいいのですが、問題はここからです。実は今の話には、悟りへの途上にある人たちを混乱させる側面も含まれているのです。
悟りへの途上にある人たちを混乱させる側面、それは簡単に申せば、Aさんの見ている「究極の領域」とおぼしきものとBさんの見ている「究極の領域」とおぼしきものは別物である場合もある、ということです。言い換えれば、悟者(悟った人、覚者)が複数人いる時彼らの見ている「究極の領域」とおぼしきものは必ずしも同じものだとは限らない、ということですね。

彼らの見ている「究極の領域」とおぼしきものは必ずしも同じものだとは限らないので当然ながら、何をもって「究極の領域」とするかということに関して、彼らの見解が分かれることもあり得ます。Aさんはあるものを見ながら「これが究極の領域」だと言い、Bさんはそれとは別のものを見ながら「これが究極の領域だ」と言うこともあり得るわけです。
そうしますと理屈としては、彼ら全員の見解が正しいとは言い切れなくなりますので、彼らのことを十把ひとからげに悟者(覚者)と呼んでいいのか? という話にもなってまいります。要するに彼らの中には悟者の名に値しない者・ニセモノの悟者も混じっている可能性がある、ということですね。

しかしここでは、敢えてそのことには深入りしないでおきましょう。話が横道にそれすぎてしまいますから。多くの人々に悟っていると見なされている人のことをここでは、本物かニセモノかには関係なく、取りあえず悟者と呼ぶことにします。

少なくとも二つはある「究極の領域」の定義

さて何をもって「究極の領域」とするかということについてですが、私の見た限りでは、これには少なくとも二つの見解が存在し得ます。その一つは、私が「裏の領域」と名付けているものをもって「究極の領域」とする見解です。

「裏の領域」の意味をご説明しましょう。この宇宙が可視の物質から成る領域と不可視の波動から成る領域に二分されることはご存じかと思いますが、前者を「表の領域」、後者を「裏の領域」という風に私は呼んでいるのです。

ということで「裏の領域」とは不可視の波動から成る領域を指すわけですが見る角度によっては、あらゆるものを生み出し生かしている生命またはエネルギーの領域という風にも言えるでしょう。ここに言う生命とかエネルギーといったものの実体は波動だからです。

繰り返しになりますが、この「裏の領域」をもって「究極の領域」とする見解がまず一つあります。が、これとは別にもう一つ、「表の領域」でも「裏の領域」でもない「第三の領域」をもって「究極の領域」とする見解もあるのです。ご存じの方はご存じのように私が組するのは、この「第三の領域」をもって「究極の領域」とする見解の方です。

「第三の領域」の意味についても少しご説明しておきましょう。「表の領域」とはこの宇宙における可視の物質の領域のこと、「裏の領域」とはこの宇宙における不可視の波動の領域のこと、という風に先ほどご説明しましたが、これら二つの領域を仮に取り除いてしまったとしてもなおその後に残る領域、もしくはこれら二つの領域に先行する宇宙がはじまる前からある領域、それがここに言う「第三の領域」です。

この「第三の領域」は、可視の物質の領域はもとより不可視の波動の領域さえも後にした領域なので当然ながら、生命とかエネルギーといったものもそこにはないことになります。

こんな「第三の領域」ですが、これをもって「究極の領域」とする見解も世の中にはあるんですね。前出の「裏の領域」をもって「究極の領域」とする見解に比べて今のところ超少数派なので、「そんなものがあるとは知らなかった」という方が99パーセント以上だろうなとは思いますけれども。

精神世界という分野を見渡しますと今のところ、「裏の領域」をもって「究極の領域」とする見解が圧倒的主流で、「第三の領域」をもって「究極の領域」とする見解はか細い傍流、といった感じがしますね。

スティーブン・ノーキスト氏の話

こんな話をしますと、「第三の領域」をもって「究極の領域」とする見解の持ち主なんてあんた以外に誰がいる? なんて声が聞こえてきそうですが、それに該当すると思われる悟者の一人にスティーブン・ノーキストという米国の方がおられます。

その方の動画がありますので、下の方に貼りつけておきます。この動画の中で彼は「第三の領域」という言葉も「究極の領域」という言葉も発してはおりませんが、この動画を見れば、彼が私の言う「第三の領域」を「究極の領域」と見なしていて、その領域に関する話していることがお察しいただけると思います。

彼が「第三の領域」を「究極の領域」と見なしていることが察せられる(動画中の)フレーズは以下の通りです。全部網羅できているか自信はないですが、参考にしてください。

(40分あたりから)
・宇宙は空っぽ
・誰もいなかった宇宙
・命のかけらもない存在

(42分あたりから)
・この宇宙はがらんどう

(46分50秒あたりから)
・宇宙は無生命に憑かれている

(51分あたりから)
・宇宙に憑いている幽霊は空っぽ
(64分38秒あたりから)
・生きておらず感じておらず知っておらず体験していない→そのために至福は完璧
(66分47秒あたりから)

・どんな種類の生命体もいない

【スティーブン・ノーキスト氏の動画】

ジェフ・リーバーマン氏の話

次に見ていただきたいのはジェフ・リーバーマンという、これまた米国の(違ってたらすいません)悟者の動画です。下の方に貼りつけておきます。

この方の場合、話の文脈から「裏の領域」を「究極の領域」としておられることが見て取れます。彼が「裏の領域」を「究極の領域」としておられることが見て取れる(動画中の)フレーズは以下の通りです。こちらの方も全部網羅できているか自信はありませんけれども、ご参考にはなるで.しょう。 

(8分36秒あたりから)
・I AMを体験した時、ものごとが生み出される源があった
(9分11秒あたりから)
・ものごとが生み出される潜在的な源がある。
・私はそのエネルギー。
(9分35秒あたりから)
・動いているエネルギーが遍く遍在するだけ
(9分52秒あたりから)
・私たちは波ではなく海

・私たちは遍満するエネルギーであり、私たちはそれを直に体験できる。その体験が悟り。

(10分21秒あたりから)
・約2500年前 人間はエネルギーであることに気が付きはじめました

【ジェフ・リーバーマン氏の動画】

すべての覚者は同じものを見ているという常識のウソ

前出の二つの動画をご覧になって、どのような感想を抱かれたでしょうか。人それぞれ色々な感想がおありかと思いますが、少なくともそれによって次のことだけはお分りいただけたと思います。「すべての悟者(覚者)の見ているものは同じだ、ただそれの捉え方・描写の仕方が違うだけだ」といった多くの人が持っている常識は事実に基づいていない。

すべての悟者が見ているものは同じ、違うのはそれをどう捉えどう描写するかということだけ、といった多くの人の中にある常識は実は事実に基づいたものではなかったんですね。
それが意味するものは、悟者たちが悟りと見なしているものには実は少なくとも二つ以上の種類が存在するということですが、だとしますと、その中のどれか一つ以外は正しくないという理屈にもなりますよね。

それもあって、悟りへの途上にある方は、どの悟者の言うことを信じ、どの悟者についてゆくかということは全て自己責任で決めなければならないということ、肝に銘じておかねばなりませんね。
キビシー! という声が聞こえてきそうですけれども。

2017/12/1
中島タローでした。

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覚者VS覚者

Posted by taro