テキスト版/瞑想系キレキレ身体動作法《補足編》1/2

※当記事はYOUTUBE動画【瞑想系キレキレ身体動作法《補足編》】で使用されたナレーションテキストを記事化したものです。記事化に当たっては、部分的な修整をおこない、要所要所に見出しを追加させていただきました。

※動画の中に出てくる字幕は、ここでは再現いたしません。

はいっ こんにちわ。悟りんぼうバンザイチャンネルにようこそ!

今回は、瞑想系キレキレ身体動作法《補足編》と題して、《プロローグ編》と《本編》では網羅できなかったお話しをさせていただこうと思います。

そのお話しとは言うまでもなく、瞑想系キレキレ身体動作法にカテゴライズされる二つの技法、すなわち「過去断ちの法」と「瞬過去ふりかえり法」に関するものに他なりません。

ちょっとおさらいになりますが、「過去断ちの法」とは真我から身体動作を起こすための技法のこと、そして、「瞬過去ふりかえり法」とは潜在意識から身体動作を起こす技法のことですね。

使うと動きのキレがよくなるので、あらゆる身体動作の中でも特に、お習字、ダンス、あと強いて言えば、空手の型演武に向いている技法だと言えます。

「瞬間もない今」&「瞬間の今」

さて、今申し上げましたように、今回取り上げるのは「過去断ちの法」、および「瞬過去ふりかえり法」という、二つの技法なのですが、ここからの話の中で最も重要な位置を占めるのは次の二つのキーワードです。

「瞬間もない今」、そして「瞬間の今」。

ここではこの、「瞬間もない今」および「瞬間の今」という二つの言葉に絡めながら、前出の二つの技法をより深く掘り下げてみたいと思います。

まずは、「瞬間もない今」、および「瞬間の今」という言葉の意味するものをハッキリさせたいと思いますが、ここでは話を分かりやすくするために、時間を一本のヨウカンに喩えさせていただきます。

普通、時間と言えば、過去から未来へと向かう一つの流れを持っているところから、一本の線に喩えられることが多いですが、ここでは今申し上げたような理由により、時間を一本の線ならぬ一本のヨウカンに喩えることにいたします。

この時間という名の一本のヨウカンを引き合いに出して、「瞬間もない今」と、「瞬間の今」の意味するものを表現するとしたら、次のようになります。時間という名のヨウカンを、二つに切り分けた時にできる切れ目のようなものが「瞬間もない今」、それに対して、時間という名のヨウカンを、可能な限り薄く切り取った時にできる極薄のスライスのようなものが「瞬間の今」。

「瞬間もない今」がヨウカンの切れ目のようなものなら、「瞬間の今」は極薄のヨウカンのスライスのようなものだ、というわけです。

ヨウカンの切れ目には、ヨウカンとしての実体が全く無いのに対して、極薄のヨウカンのスライスには、わずかながらもヨウカンとしての実体が有ることは、皆さんご存じの通りです。が、そのことからもお察しいただるかと思いますが、以上の喩えを通して私が明らかにしたいのは、次の事実に他なりません。

「瞬間もない今」には時間の幅が全く無いのに対して、「瞬間の今」にはわずかながらも時間の幅がある 。

時間の幅が全く無いのが「瞬間もない今」、それに対して、わずかながらも時間の幅があるのが「瞬間の今」、というわけですが、これを別の角度から表現したら、こうなります。

瞬間というわずかな時間の幅さえも無いのが「瞬間もない今」、それに対して、瞬間というわずかな時間の幅があるのが「瞬間の今」。

真の今はどちらなのか?

「瞬間もない今」と「瞬間の今」の違いはこのようなものですが、ここまでの話を踏まえて、ここで皆さんに考えていただきたいのは、真の今と呼ぶに値するのは、これら二つの中のどちらなのか? ということです。

さあ皆さん、「瞬間もない今」と、「瞬間の今」のうち、真の今と呼ぶに値するのは一体どちらなのでしょうか?

といっても、答えはもう、誰の眼にも明らかですよね。そう、真の今と呼ぶに値するのは、あるいは真の今に該当するのは、「瞬間もない今」であって「瞬間の今」なのではありません。

なぜなら、ここに言う瞬間というものを、顕微鏡をのぞくような眼で細かく調べてみると、その中にも過去や未来が含まれていることが見て取れるからです。

このようなわけで、私たちが普通今という言葉を使う時には、ここに言う「瞬間の今」という意味合いで使うことが圧倒的に多いとはいえ、真の今と呼ぶに値するのは、その「瞬間の今」ではなく「瞬間もない今」のほうなんですね。

真の今=「瞬間もない今」=心が消え失せ真我が発現する場所

話は変わりますが、この「瞬間もない今」の側面の一つは、心が消え失せる場所というものです。どういうことかと言いますと要するに、心をこの「瞬間もない今」に持ってゆくと心は消え失せるようになっている 、あるいは、そこに居られないようになっている、ということです。

今一度、思い起こしていただきたいのですが、「瞬間もない今」というのは何であれ、何かが存在するために必要な時間の幅が全く無い世界です。 そんなところに心を持っていったらそりゃあ、心がそこに居られなくなるのは当たり前の話というものです。

ちなみに、心という言葉は意味の幅が広い言葉の一つですが、ここに言う心とは思考の出どころである顕在意識だけを指しているのではなく、感性の出どころである潜在意識までも含めた、最も広い意味における心を指しています。

その心が、「瞬間もない今」に持ってゆかれると同時に消え失せてしまうことは、その時の私たちが、考えることはもとより感じることさえもできなくなるという事実によっても、裏付けられています。

悟りへの途上にある人たちにとっては、自分イコール心なので、心が消え失せることはそのまま、自分が消え失せることでもあるわけですが、その心が消え失せると同時に、発現するものがあります。何だと思われますか?  それは真我です。真我の発現を妨げている唯一のものは心であることを考えれば、当然の成り行きと言えますね。

ということで私たちは、「瞬間もない今」に心を持ってゆくことによって、心を消え失せさせることができ、さらにその結果として、真我を発現させることもまたできるわけです。

「瞬間もない今」は悟りに通じる入り口

で、私たちが真我を発現させ得ている時、悟りは射程距離の中にあります。 なぜなら悟りとは、その一つ先に待っている、真我が真我自身に気づくという、一大転回のことだからです。

逆から言えば私たちは、「瞬間もない今」に心を持ってゆくことによって心を脇に置き、その結果として、真我を発現させ得ている時というのは、その悟りの一つ手前に居ることになるわけです。

悟り界隈では、「今」が悟りに通じる入り口になっている、ということがよく言われますが、以上の話からもお察しいただけますように、ここに言う「今」とは、より正確に言い換えると「瞬間もない今」のことに他なりません。 つまり、より正確に申せば、「瞬間もない今」こそが悟りに通じる入り口なのだ、ということですね。

「瞬間もない今」に心を持ってゆく最も確実で効果的な方法

さてそうしますと、悟りへの途上にあるかたがたの関心事の一つは、ではその「瞬間もない今」に心を持ってゆくためには、どうしたらよいのか?  ということに当然なるでしょう。が、その「瞬間もない今」に心を持ってゆくための、最も確実で効果的な方法がここにあります。何だと思われますか? その方法を一言で申せば次のようになります。

心で過去を一切振り返らないこと。

心で過去を一切振り返らないこと、これが「瞬間もない今」に心を持ってゆくための、最も確実で効果的な方法なんですね。もう少し詳しく、ご説明しましょう。

まず押さえておきたいのは、ここに言う過去とは、最も厳密な意味における過去であるということ、言い換えれば、「瞬間も無い今」から見た過去である、ということです。

先ほども申し上げましたように、「瞬間も無い今」とは、時間という名のヨウカンを二つに切り分けた時にできる、幅の無い切れ目のようなものです。 なのでその、「瞬間も無い今」から見た過去というのは、例えばの話、万分の一秒前のような、私たちが普段は過去として意識することのない、極めて微かな過去さえも含めた過去ということになります。

「瞬間も無い今」から見た過去というものが、最も厳密な意味における過去の別名たり得るのは、そういうわけだからです。

「瞬間もない今」に心を持ってゆくための、最も確実で効果的な方法として、心で過去を一切振り返らない、というやり方があることは前述の通りですが、ここに言う過去というのは、その「瞬間も無い今」から見た過去を指していることを、銘記しておいてください。

心で過去を一切振り返らないことが「瞬間もない今」に心を持ってゆくことに繋がる理由

で、私たちが心で、その過去を一切振り返らないようにした時、心はどうなるかと言いますと、未来に先回りすることが一切できなくなります。 私たちが心で、過去を一切振り返らないようにするや否や、心は未来に先回りすることが、一切できなくなるんですね。

心の側からしてみると、それというのは、過去に向かうことを全面的にやめると自動的に、未来に向かうことも全面的に止んでしまう、といった具合です。

どうして、そうなると思われますか?  実はこれは、心には次のような性質があることからきています。

 過去に向かうことと、未来に向かうこととがワンセットになっている。

過去にを向かうことと、未来に向かうこととがワンセットになっている、ということは言い換えれば、過去に向かうことがなくなれば未来に向かうこともなくなり、逆に、未来に向かうことがなくなれば過去に向かうこともなくなる、ということに他なりませんが、そういう性質が心にはあるんですね。

だからこそ前述のように、私たちが心で過去を一切振り返らないようにすると自動的に、心は未来に先回りすることが一切できなくなる、というわけです。

ちなみに、ここに言う未来が最も厳密な意味における未来、すなわち、「瞬間も無い今」から見た未来を指していることは、皆さんが既に察しておられる通りです。

なので例えば、万分の一秒先のような極めて微かな未来さえも、ここに言う未来にカウントされることになるわけです。それは、この話の中に出てくる過去が、最も厳密な意味における過去、あるいは「瞬間も無い今」から見た過去を指していることと、共通していますね。

そこを押さえた上で、次に進ませていただきますが、では、過去を振り返ることも未来に先回りすることも一切なくなった心、すなわち過去にも未来にも、一切向かわなくなった心はどうなるかと言いますと、「瞬間も無い今」以外に、向かえる場所がなくなります。

それはそうですよね、時間には過去と未来と「瞬間も無い今」の三つしかないのですから、過去にも未来にも一切向かわなくなった心にとって、残された向かえる場所は「瞬間も無い今」しかないに決まっています。

では、その「瞬間も無い今」に向かうと、心はどうなるかと言いますと、先ほどの話からもお分かりのように、消え失せてしまいます。繰り返しになりますが、「瞬間も無い今」とは、心が消え失せる場所のことでもあるからです。

既にご存じのように、真我を発現させる唯一の道は、心を消え失せさせることですが、以上のような背景があるために、私たちは心で過去を一切振り返らないことによって、結果的に、心を消え失せさせることができる、 というわけです 。

私たちにとって、心で過去を一切振り返らないことは、心を消え失せさせるための手立てたり得るんですね。実にシンプルな手立てではありませんか。

「過去断ちの法」とは体を動かすことと心で過去を一切振り返らないこととを融合させる技法

さて、こういう話をいたしますと、【瞑想系キレキレ身体動作法《本編》】などを通して、「過去断ちの法」の何たるかを知っておられた方は、ピンと来ておられるかも知れません。 「過去断ちの法」というのは、体を動かすことと、心で過去を一切振り返らないこととを融合させる技法でもある、ということにです。

そう、「過去断ちの法」とはまさに、体を動かすことと、心で過去を一切振り返らないこととを、融合させる技法でもあるんですね。

「過去断ちの法」を使うことによって、私たちが、体を動かしながら、あるいは体を動かすことの中で、心で過去を一切振り返らないことを難なく実践できるのは、そのために他なりません。

ちなみに、「過去断ちの法」をまだご存じでないかたのご参考のために申し添えておきますが、そのやりかたは次のようなものです。

既に終了し、過去のものとなった身体動作を、心で振り返らないようにしながら、身体動作をする。

いかがでしょうか? このやりかたで行けば、身体動作をすることと、心で過去を一切振り返らないこととが、うまくかみ合い、融合することが見て取れるはずです。

(※テキスト版/瞑想系キレキレ身体動作法《補足編》2/2に続く)

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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