テキスト版・潜在意識や集合的無意識さえも外してスッカラカンになる技法

一つ前の記事で、私のYOUTUBE動画第二弾『潜在意識や集合的無意識さえも外してスッカラカンになる技法』をご紹介しましたが、その動画で使われているナレーションテキストの中から本題部分すなわち「技法」の説明がされている部分を取り出し以下に掲載させていただきます。

ただし記事としての体裁を持たせるために、要所要所で見出しを新しく付け加えさせてもらいました。

 

この技法の中身は『時間を止める三ステップ』と同じです

それではこれから、本題である『心を丸ごと外す技法』の話に入らせていただきます。

(※『心を丸ごと外す技法』=『潜在意識や集合的無意識さえも外してスッカラカンになる技法』の略称)

前もってお断りしておきますが、この技法というのは既に公開済みの『時間を止める三ステップ』という技法と中身は全く同じです。

その『時間を止める三ステップ』のことをまだご存じでないかたは、それのやり方が書かれている解説書へのリンクを説明欄に貼っておきましたので、当動画を視聴し終わったあと、おさらいも兼ねてお読みいただければと思います。当動画よりも詳しくまったりと説明してありますので、それをお読みになれば、ここからの話の中に不明な点があったとしても解消されるはずです。

またすでに『時間を止める三ステップ』のことをご存じのかたは、ここからの話のほうをおさらいのつもりでお聞きになったらいいのではないでしょうか。でもそれを、かったるいと感じられるかたは、ここから先の視聴をおやめになっても構いません。

三つのステップからなるこの技法

さて、その『時間を止める三ステップ』という別名にも表れておりますように、ここに言う『心を丸ごと外す技法』というのは三つのステップから成っています。そして、その三つのステップの一つ一つには次のような固有の呼び名が付けられています。

第一ステッブは「没入法」。第二ステップは「観察法」。第三ステップは「中間法」。

ステップが三つもあるの? 取り組みがめんどくさそう! という声が今どこからか聞こえてきましたが、例えばの話、悟り系の講演を百回聞きに行っても実現できないようなことを、このわずか三ステップで実現できることを考えれば、その取り組みはコストパフォーマンスの超高いものになるはずなんですね。

悟り系の講演を百回聞きに行っても実現できないようなことって何? ですって。そうですね、まず挙げたいのは心理的な時間の停止、もしくは心に感じられる時間の停止。これが実現できると世の覚醒者らがよく口にする「永遠の今」という言葉の意味が体験的事実として分かるようになります。

もう一つ挙げるとすれば、心理的な苦からの解放、ですね。いかがでしょうか、どちらか一つだけでも、ワンダフルな見返りだとは思われませんか。

第一ステップ「没入法」

それではまず、第一ステップについてお話ししましょう。このステップの別名が「没入法」であることからもお察しいただけるかと思いますが、このステップにおいて私たちに求められるのは、何か一つの行為への没入です。

ここに言う何か一つの行為とは言い換えれば、何らかの身体的な動きをともなうワーク、例えばお掃除すること、歩くこと、踊ること、体操すること、あるいはギターをひくこと、などなどを指します。

が、それらの中でも私のオススメは禅宗に伝えられている数息観という呼吸がらみの修養法です。これならばゆっくり座ってでもできるという意味で、ラクチンですからね。

数息観とは一言で言うと自分の呼吸を数えることですが、どんな風に呼吸を数えるのかといいますと、吸う息吐く息のうち吐く息のほうだけ一・二・三・四……と数えてゆくのです。つまり具体的には、一回目の吐く息をイチと数え、二回目の吐く息を二と数え、三回目の吐く息をサンと数え、といった感じで吐く息を次々と数えてゆくわけです。

で、その数が例えば十とか、三十とか、五十とか、自分で前もって決めておいたくぎりのよい数に達したらワンセット終了ということになります。ここでは何セット行うかも、ご自分で自由に決めていただいて結構です。

なお呼吸の数え方に関しては、吸う息・吐く息、もしくは吐く息・吸う息をワンセットとして数えるやりかたもあるようですが、こちらのほうがしっくり来るかたはこちらのほうを選んでくださって構いません。

また、実践時の姿勢にも決まりはありません。どんな座りかたでやろうが自由だということです。

ひとつ押さえておきたいのは、ここでは数息観というのは先ほど申し上げた没入法を実践するための手段でしかないということです。言い換えれば、ここでは数息観それ自体が重要なのではなく、数息観を通して実践される没入法のほうこそが重要なんだってことですね。

ここでは没入法が主役で、数息観はそのお助け役といったところでしょうか。だからここでは、数息観のやり方に関しては、あまり細かいところまで気にする必要はないわけです。

さて今、数息観を通して実践される没入法のほうこそが重要だというふうに申し上げましたが、数息観を通して没入法を実践するということは具体的には、息を数える行為に没入するということに他なりません。息を数える行為に没入することが、ここに言う数息観を通して没入法を実践するということの意味です。

その実践の際のポイントを一つあげておきますと、息を数える行為に百パーセントの心で没入するようにしなければならない、ということです。

例えば……

一と数える時は百パーセントの心で没入しながら一と数えます。 ニと数える時は百パーセントの心で没入しながら二と数えます。 三と数える時は百パーセントの心で没入しながら三と数えます。 こんな感じで、やってください。

ただし申し添えておきますが、ここに言う百パーセントの心とは自分から見た百パーセントの心のことです。言い換えれば、それというのは客観的に見た百パーセントの心である必要はないということです。

なので例えば自分からは百パーセントの心に見えるものが、客観的に見たら九十パーセントの心でしかないというようなことが仮にあったとしても、それはそれで構わないわけです。そういう細かいことを気にする必要はありません。

で、この実践をいつまで続けたらいいのかと言いますと、自分の行為に百パーセントの心で没入するということの意味が体験的に分かるまでです。言い換えれば、百バーセントの心で自分の行為に没入するとはこういうことなのか、こういうことだったのか、納得うっ! と頭や理屈じゃないところで分かるようになるまでです。

そんなに高いハードルではないと思います。

そこまでいったらあなたは第一ステップの目的をクリアできており、次の第二ステップすなわち観察法へと進む資格を得たことになります。

第二ステップ「観察法」

さてそれでは、ここからの話は、その第二ステップすなわち観察法についてのものになります。

このステップでは、くだんの数息観を通して観察法を実践していただくことになります。一つ前のステップの課題は数息観を通しての没入法の実践でしたが、このステップの課題は数息観を通しての観察法の実践になるわけです。

数息観を通しての観察法の実践とは具体的には息を数える行為を観察するということに他なりません。息を数える行為を観察することが、ここに言う数息観を通して観察法を実践するということの意味です。

その実践の際のポイントを一つあげておきますと、息を数える行為を百パーセントの心で観察するようにしなければならない、ということです。

例えば……

一と数える時は百パーセントの心で観察しながら一と数えます。 ニと数える時は百パーセントの心で観察しながら二と数えます。 三と数える時は百パーセントの心で観察しながら三と数えます。 こんな感じで、やってください。

ここに言う百パーセントの心が自分から見た百パーセントの心を指していることは、先ほど申し上げた通りです。

で、この実践をいつまで続けたらいいのかと言いますと、自分の行為を百パーセントの心で観察するということの意味が体験的に分かるまでです。言い換えれば、百バーセントの心で自分の行為を観察するとはこういうことなのか、こういうことだったのか、納得うっ! と頭や理屈じゃないところで分かるようになるまでです。

こちらのほうも、そんなに高いハードルではありませんね。

そこまでいったらあなたは第二ステップの目的をクリアできており、次の第三ステップすなわち中間法へと進む資格を得たことになります。

第一ステップと第二ステップの目的および両者の違い

ここで整理しておきますと、第一ステップ「没入法」の目的は自分の行為に百パーセントの心で没入する、ということの意味を頭や理屈じゃないところで理解することにあります。それに対して、第二ステップ「観察法」の目的は自分の行為を百パーセントの心で観察する、ということの意味を頭や理屈じゃないところで理解することにあります。

で、くりかえしになりますが、これら二つをクリアできた時、あなたはめでたく第三ステップ「中間法」へと進む資格を得たことになるわけです。

ここで、その第三ステップ「中間法」の話に入る前に押さえておきたいのは第一ステップ「没入法」と第二ステップ「観察法」の違いです。

両者の共通点が心を百パーセント働かせることが求められるステップであるということは、これまでの話から 皆さん既に分かっておられると思います。そう、第一ステップ「没入法」と第二ステップ「観察法」の共通点は、どちらも心を百パーセント働かせることが求められるステップであるということなんですね。

では、両者の違いとは何でしょうか? それを一言で言うと次のようになります。「没入法」では自分の行為の中に、心を百パーセント入れることが求められ、「観察法」では自分の行為の外に、心を百パーセント出すことが求められる。

自分の行為の中に、心を百パーセント入れることが求められのが「没入法」。それに対して、自分の行為の外に、心を百パーセント出すことが求められるのが「観察法」、というわけです。

「没入法」も「観察法」も心を百パーセント働かせることが求められる点は同じですが、そういう意味では正反対なものだとも言えるんですね。

「没入法」と「観察法」の間に前述のような違いがあることは、没入という言葉と観察という言葉のそれぞれの意味合いを考えてみればうなづけると思います。

私たちは自分の行為に没入するためには心をその中に入れる必要があります。それ無しで自分の行為に没入することはできません。また、私たちは自分の行為を観察するためには心をその外に出す必要があります。それ無しで自分の行為を観察することはできません。

「没入法」と「観察法」の間に前述のような違いが生まれるのは、そういう前提があるからなのです。

第三ステップ「中間法」

さてそれでは、以上を踏まえながら、第三ステップ「中間法」の話に入らせていただきます。

第三ステップ「中間法」において私たちがしなければならないことを一言で言いますとそれは、「没入法」と「観察法」の同時実践です。すなわち、「没入法」と「観察法」を同時に実践することです。それについてご説明しましょう。

先ほどの話からもお分かりのように私たちにとって、「没入法」を実践するということは心の全てを自分の行為の中に入れるということでもありまた、「観察法」を実践するということは心の全てを自分の行為の外に出すということでもあります。

従って私たちが「没入法」と「観察法」を同時に実践した場合、心の全てはどうなるかと言いますと、私たちの行為の中に向かうでもなく、その外 に向かうでもない、どっちつかずの 中間的な 状態、もしくは完全な静止状態になります。

この状態を視覚的なイメージで理解したかったら、こういう場面を思い浮かべてみてください。例えば運動会などの綱引き競技において、一本のロープが右と左から同じ力で引っ張られ、右にも動かず左にも動かず、均衡を保って静止している。

私たちが「没入法」と「観察法」を同時に実践することによってもたらされる前述のような心の状態を何かに喩えるとしたら、まさにそんな感じだと言えます。

前述のように私たちが「没入法」と「観察法」を同時に実践している時というのは、心の全てが完全な静止状態にあるわけですが、それというのは例えば、一本のロープが右と左から同じ力で引っ張られ、右にも動かず左にも動かず、均衡を保って静止している状態とそっくりなんですね。

ここで銘記しておいていただきたいのは、次のことです。私たちが「没入法」と「観察法」を同時に実践したにも関わらず、心が前述のような完全な静止状態にもしならなかったとしたら、私たちのやりかたに不正確な点があったということに他ならない。

要するに、「没入法」と「観察法」の同時実践をする際にはそれ相応の正確さというか完全なるバランス感覚みたいなものが要求される、ということですね。そこのところ皆さん忘れないようにしておいてください。

さて、話があと回しになってしまいましたが、第三ステップに取り組むに当たって肝心なことの一つは、その「没入法」と「観察法」の同時実践は何を通してしたらよいのかということですね。

ご存じのように、「没入法」と「観察法」の一つ一つの実践は数息観を通してすることが私のオススメでした。が、この「没入法」と「観察法」の同時実践に関しては数息観を通してすることを私はオススメいたしません。なぜならこの「没入法」と「観察法」の同時実践というのは、数息観のようなアクティブな要素のあるものを通してすることにあまり向いていないからです。

裏を返せば、「没入法」と「観察法」の同時実践はアクティブな要素のないもの、すなわち静的なものを通してすることに向いているということなのです。

では、ここに言うアクティブな要素のないもの・静的なものとは何でしょうか。それは基本的に次の三つがあります。立つこと。座ること。横たわること。

で、この三つの中で私のオススメは二番目の座ることです。立つことよりも疲れにくく、横たわることよりも気持ちが怠慢になりにくい、というのが、その理由です。

ということで、座ることを通しての「没入法」と「観察法」の同時実践について、ここで少しお話ししておきましょう。

既に分かっておられますように、「没入法」を実践するということは自分の行為の中に心の全てを入れるということでもあります。それに対して「観察法」を実践するということは自分の行為の外に心の全てを出すということでもあります。

従って、私たちが座ることを通して「没入法」と「観察法」の同時実践をおこなった場合、心の全ては座ることの中にも外にも向かわず、どっちつかずの中間的な状態・言い換えれば完全な静止状態になります。

完全な静止状態の中で消え失せる心 それと同時に露呈する真我

で、ここからはその先の話になりますが、私たちが「没入法」と「観察法」の同時実践をおこなって心が完全な静止状態になった時、心はその完全な静止状態をずっと保ち続けていられるわけではありません。完全な静止状態のままで存在し続けられる心なんてものはない、と言い換えてもいいでしょう。

どういうことかと言いますと、心は完全な静止状態になったとたんに存在を保てなくなるようにできている、あるいは消え失せる定めになっている、ということですね。心にとって完全な静止状態になるってことと消え失せるってこととは同じ意味なのです。だから完全な静止状態のままで存在し続けられる心なんてものはない、と言えるわけです。

このことを知識としてではなく体験的事実として知るためにはやはり、実際に「没入法」と「観察法」の同時実践を行い、心を完全な静止状態に持っていってみるしかありません。

実際に「没入法」と「観察法」の同時実践をおこない、心を完全な静止状態に持っていってみれば、あなたは体験的事実として、すなわち頭や理屈じゃないところで知るにいたるはずです。私が今申し上げたように、心は完全な静止状態になったとたんに存在を保てなくなり消え失せる定めにあるのだということを。

そしてそれと同時に、これまで見てきた第一ステップ・第二ステップおよび第三ステップの総称が「心を丸ごと外す技法」であることにも合点がゆくに違いありません。

第一ステップから第三ステップまでの総称としての「心を丸ごと外す技法」というこの名称は前述のような事実の裏付けがあってのものであり、決してダテやハッタリで付けられたものではないんですね。

で、あなたが、この「心を丸ごと外す技法」への取り組みによって首尾よく心を丸ごと外すことができた時、そこに露呈しているものは真我に他なりません。が、悟りとはこの段階の一つ先に待っている真我が真我自身に気づくという不思議な転回のことを言います。

裏を返せば、この段階まで来れたということは悟りまであと一歩のところまで来れたということでもあり、すばらしいことなんですね。まあ、その一歩が案外長くかかったりすることもあるわけですが。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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