真我とは何か?

2018-05-29

真我を顕在化させ得てこそある悟りの芽

悟りとは何か? という問いに対する答えは色々あり得ます。悟りそれ自体は一つであるとはいえ、見る角度によって色々な捉え方が可能だからです。が、ここではその問いに対しては「真我の覚醒である」という風にだけお答えしておきましょう。どちらかと言えば抽象的で大まかな回答ではありますが、ここは悟り観について詳細に語る場ではありませんのでね。

さて、悟りすなわち真我の覚醒を実現するためには我々は、まずその前に真我の顕在化を果たさねばなりません。真我の顕在化がないところに真我の覚醒を意味する悟りはないからです。順序として、まず先に真我の顕在化があり、その次に真我の覚醒を意味する悟りがある、という形になっているのです。前者と後者が同時のこともあり得ないわけではありませんが、そういうケースは稀だと思います。

このように申し上げると、「真我の顕在化」と「真我の覚醒(悟り)」は別の事柄なのか? と思われるかも知れませんがその通りでして、真我を顕在化させ得たからといって必ずしもそれが「真我の覚醒(悟り)」に直結するとは限らないんですね。それぞれの字面を見ると、意味にさしたる違いはなさそうに感じられるかも知れませんが、そうでもないわけです。

が、前者と後者は別物であるとはいえ、前者がなければ後者もまたないということもまた事実です。両者の間にはそういう意味での繋がりはあります。なので、悟りへの途上にある方々がまず最初に目指すべきゴールが「真我の顕在化」であることは間違いありません。

心を脇に置くと顕在化する真我

さてそれでは、我々はどうすれば真我を顕在化させられるのでしょうか? 真我を顕在化させるために我々にできることは一つです。前にお話ししたこととかぶりますが、心を脇に置く、というのがそれです。心を脇に置くことが真我を顕在化させる唯一の道なんですね。

心を脇に置く方法

心を脇に置くことが真我を顕在化させる唯一の道である、ということになりますと、悟りへの途上にある方々が次に関心を持たれるのは、では我々はどうすれば心を脇に置くことができるのか? ということであろうかと思います。この問いに対する私からの回答は次のようなものです。

我々は真我の一側面を体現することによっても心を脇に置くことができる。真我には色々な側面がありますが、その中のどれか一つを体現するという方法によっても我々は心を脇に置くことができるんですね。

ちなみに、心を脇に置く方法の中にはそれの他に、前にもお話しした「呼吸を止める」という方法とか、誰かさんにお願いして不意打ちで頭をぶんなぐってもらうといった荒っぽい方法なんかもありますが、効果が長続きしないということもあって積極的にはおススメいたしません。

話を戻しましょう。前述のように真我には様々な側面があるわけですがここで、真我にある様々な側面の中のいくつかを具体的に挙げておきます。それには例えば次のようなものがあります。「今にある」という側面、「絶対的な無為の中にある」という側面、「いかなる支えも無しにある」という側面、「即今・即座にものを見る」という側面……。

最後に挙げた「即今・即座にものを見る」という側面について少し補足しておきますが、ここに言う「即今・即座にものを見る」は言い換えれば、我々が認識しているもの、例えば目にしたり耳にしたりしているものなどを思考や感覚(フィーリング)などが介在する余地もないまでに素早く間髪入れずに見る、ということです。
ちなみに、そんな風にものを見ることを私の造語では「即覚(そっかく)」と言います。

で、繰り返しになりますが我々は、その「今にある」という側面、「絶対的な無為の中にある」という側面、「いかなる支えも無しにある」という側面、「即今・即座にものを見る」という側面といった、真我に備わる色々な側面の中から、どれか一つを選んで体現することによっても、心を脇に置くことができるわけです。

もっと端的に、回りくどくなく言いますと我々は、「今にある」ことによっても、「絶対的な無為の中にある」ことによっても、「いかなる支えも無しにある」ことによっても、「即今・即座にものを見る」ことによっても、心を脇に置くことができるわけです。

このように我々は、真我に備わる側面の全てではなく、その中のどれか一つを体現することで心を脇に置くことができるのでありまして、心を脇に置くことができると我々は、その結果として真我を顕在化させることもまたできます。で、その真我を顕在化させることの中には真我の全側面を体現することが含まれています。

「A・真我の一側面を体現する」=「B・心を脇に置く」=「C・真我を顕在化させる」=「D・真我の全側面を体現する」、という風に考えると分かりやすいかと思います。ちなみにこれらA、B、C、Dの発生時間に誤差は一切ありません。つまり、これら四つは同時に起こるのです。その意味ではB、C、Dの順番はどのようにでも並べ替えることができる、とも言えます。

真我の一側面を体現することの難しさ

真我の一側面を体現すると心(顕在意識+潜在意識)が脇に置かれる、ということは裏を返せば、もしも心が脇に置かれないようであれば真我の一側面を体現したことにはならない、ということに他なりません。もしも心が脇に置かれないようであれば、真我の一側面を体現することに成功しなかったということになるわけです。

そう考えると、真我の一側面を体現することの難しさがお分かりいただけるのではないでしょうか。真我の一側面を体現することの難しさは心を脇に置くことの難しさとイコールです。そう簡単なわけがありません。

そこで出番だ『時間を止める三ステップ』

しかしながら、悟りへの途上にある方々にとって幸いなのは、その難しさを乗り越える道が少なくとも一つはある、ということです。その難しさを乗り越える道が少なくとも一つ、我々にはあるんですね。そう言えるのは、誰でもあるメソッドを実践すれば比較的簡単に、ある真我の一側面を体現できるようになっているからです。

ここに言うあるメソッドとはグローバルメニューにもその名が表示されている『時間を止める三ステップ』を指します。そしてここに言うある真我の一側面とは「今にある」という側面を指します。
(※「グローバルメニュー」=ブログタイトルの下にある帯状のメニュー)

要するに我々は、『時間を止める三ステップ』(というメソッド)を実践することで比較的簡単に真我の「今にある」という側面を体現できる、ということですね。

悟りへの道を歩んでおられる方で、まだこのメソッドを実践なさってない方はぜひ実践なさってみてください。このメソッドを実践して真我の「今にある」という側面を体現できた時、あなたは頭や理屈じゃないところで理解できるはずです。

真我の一側面を体現することは、心を脇に置き真我を顕在化させることとイコールだが、それと同時に、真我の他の側面全部を体現することともまたイコールである、という先ほどの私の話を。

あなたは『時間を止める三ステップ』を実践することで比較的簡単に、真我の「今にある」という側面を体現し心を脇に置くことができます。が、それと同時に、「絶対的な無為の中にある」という側面、「いかなる支えも無しにある」という側面、そして「即今・即座にものを見る」という側面といった真我の他の側面を体現することもまた、私が申し上げた通りできるはずなのです。

得られる効果が色々ありすぎて頭の中がゴチャゴチャされたかも知れません。が、実際にそれを体験してみれば、そんなことはなくなります。何故かと言いますと、今挙げた複数の効果というのは何の繋がりもなくバラバラにあるのではなく、一つのものの中に含まれている色々な側面であることが明らかになるからです。

ともあれ、悟りへの道に足を踏み入れておられて、ここで『時間を止める三ステップ』に出会えた方はラッキーな方だと思います。それを通して、悟りの必要条件である「真我の顕在化」を比較的簡単に果たせるわけですから。

「当方の真我観・概要」は以上で終わりです。

2017/11/22
中島タローでした。