真我とは何か?

2017-11-30

真我無極説

※この記事は、アメブロで公開済みの“「アウトオブスペース系の悟り」宣言”というタイトルの記事をアチコチ書き直し改変しまくったものです。先にお話ししたこととかぶってる部分がありますが、そこはおさらいのつもりでお読みいただければと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここでは、「真我無極説」すなわち「真我は無極であるという説」を披露させていただきます。

「表の領域」と「裏の領域」

まずは、私が「表の領域」「裏の領域」と名付けている宇宙の二つの領域のことからお話ししましょう。
「表の領域」と「裏の領域」、この二つはどちらも宇宙を成り立たせているものという意味ではお仲間ですが、両者の間には次のような歴然とした違いがあります。「表の領域」は我々の目に見える領域、「裏の領域」は我々の目に見えない領域。

前者に関しては、我々が日々生活の中で接している領域ということで、これ以上言葉を足す必要はないかと思います。
また後者に関してもここで、あまり多くを語る必要はなさそうです。なぜなら、それが我々の目に見えないのは波動とか量子あるいは気といった極めて精妙なものでできているからである、という程度の知識は皆さん既にお持ちでしょうから。何といっても、こういう目に見えない世界のことを扱っているブログを訪問してくださる皆さんのことですからね。

ニューサイエンスなどで言われる「明在系」「暗在系」という言葉を使って説明いたしますと、「表の領域」は「明在系」に相当し、「裏の領域」は「暗在系」に相当するとも言えます。ちなみに後者のことは、中国式では「太極」と呼ばれているようです。

 

 

 

 

 

 

裏の領域が真我なのではない

どうして今こんな話をしたかといいますと、いわゆる「精神世界」と呼ばれる分野では、ここに言う「裏の領域」を真我とする見方が定番のようですが、「それは違いますよ」ということをまずはじめに申し上げておきたかったからなのです。

当方の真我観では、ここに言う「裏の領域」あるいは「暗在系」あるいは「太極」といったものと真我とは別物なんですね。有り体に言えば、波動とか量子とか気といったものと真我とは関係がないのです。そういったものって我々の目に見えない存在であることから、真我と関係あるかのように思われがちではあるのですが。

真我は「表の領域」でも「裏の領域」でもない第三の何かである

では、お前は何をもって真我としているのか? という声が聞こえてきそうですね。私に言わせれば、「表の領域」でも「裏の領域」でもない第三の何かこそが真我なのだということになります。ちなみにここに言う第三の何かのことは中国式では「無極」と呼ばれているようです。

 

この「無極」という言葉ですが、先ほど出てきた「太極(=裏の領域)」という言葉とセットで覚えておかれたらいいと思います。どちらも我々の目に見えない領域という意味ではお仲間ですから。それにしても我々の目に見えない領域には無極と太極という二つの全く異なるものがあるという話、初耳の方が多そうな気がします。

 

裏の領域が真我と見なされやすい理由

さて前述のように、当方の真我観によれば、「表の領域」でも「裏の領域」でもない第三の何か・無極こそが真我だということになるわけですが、そのことをご存じない方でも少なくとも知的には、真我が「個としての私を超えた不可視の遍在者」であることぐらいは知っておられるようです。

その背景には、個としての私を超えてなくて、肉眼で見ることができて、大きさに限りのある真我なんてものを誰も想像できないってことがあるのでしょう。そんなしょぼい真我なんて誰も想像できない、というか想像したくもありませんからね。

しかしそんな彼らも、「個としての私を超えた不可視の遍在者」に当てはまるものには実は無極と太極の二つがあるんだってことまでは知る由もありません。もし知ったら、「ええっ、二つあるの!?」と驚きまくるはずです。

中国で昔から太極と呼ばれてきて、現在は宇宙大生命とか、深層(潜在)意識とか量子場とか、波動の世界といった呼び方をされているもの。それはおそらく今のところ(この記事が書かれている2017年11月現在)、ほぼ百パーセント近い人々が「個としての私を超えた不可視の遍在者」という言葉から連想できる唯一のものではないでしょうか。

現在ほとんど全ての人たちは「個としての私を超えた不可視の遍在者」といえば太極もしくは太極に相当するものすなわち、宇宙大生命とか、深層(潜在)意識とか量子場とか、波動の世界といった呼び方を現在されているものしか連想できないはずです。

言い換えれば彼らは、太極とは種類の異なる「個としての私を超えた不可視の遍在者」、すなわちここに言う無極の存在など想像できないに違いありません。

そんな彼らが、「太極」もしくは「太極」に相当するものを真我と思い込んでしまったとしても無理はないと言えます。「個としての私を超えた不可視の遍在者」といえば「太極」もしくは「太極」に相当するものしか連想できない彼らがどうして、それ以外のものを真我と結びつけることなどできるでしょう。

しかし本当は、繰り返しになりますが、そんな彼らの思いこみとは裏腹に、太極ならぬ無極こそが真我なのです。ちなみに、この「真我無極説」とでも言うべきものを無極という具体的な言葉を使って私より先に主張された方は、私の知る限りでは山口修源という方ただお一人であったと思います。

太極と無極の大きさの違い

太極と無極の最も分かりやすい違いは大きさです。それぞれの大きさを比較してみますと、太極が宇宙という枠からハミ出していないのに対して、無極は宇宙という枠からハミ出しています。

 

 

もう少し細かく言うなら、宇宙の全てに遍在してはいるものの宇宙という枠からハミ出してはいないのが太極、、宇宙の全てに遍在していると同時に宇宙という枠からハミ出してもいるのが無極、ということになります。

 

で、ここからはついでの話になりますが、前述のように無極は大きさ的に宇宙という枠からハミ出した存在でもありますので、無極すなわち真我の目覚め・覚醒を意味する悟りには当然ながら、「宇宙(空間)という枠からハミ出す側面」言い換えれば「宇宙(空間)の外に出る側面」を伴います。

私が悟りのことを「アウトオブスペース系の悟り」あるいは「宇宙の外に出る悟り」といった別名で呼ぶことがあるのは、悟りのそういう側面を強調するためです。

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