真我とは何か?

2018-05-29

あのインドの覚者たちは、どのように言っているか

私が「今はなきインドの覚者トリオ」と勝手に呼んでいるあの三人、そう、オショー、クリシュナムルティ、ラマナマハリシの三人も私の今の話と同じようなことを言っているのか、いないのか、皆さん気になるところではありませんか。何? お前に教えられるまでもなく、そんなことハッキリしてるじゃん、言うわけないだろ、ですって……。

こりゃまた失礼いたしました……。確かにご存じの方はご存じのように、あの三人はそんなこと言ってないんですね、つまり、真我は単一で均一で一続きな何かだみたいなことは一度も言ってはいないんですね。もしも前述のような私の真我観に怪しさを感じる向きがあるとしたら、そういうことも大きく関係しているのだろうな、と私は思っています。

もし仮にあんたの言うことに普遍性があるのなら、あの三人の中の誰かが、死ぬまでに一度や二度はそれに類することを口にしていたはずだ、なのに、それもない、それもないってことはあんたの真我観に普遍性はないということだ……。といった感じでしょうか。当方の真我観に怪しさを感じておられる向きの心の中を代弁するとするならば。

が、そのことに関しては私の方にも言い分があります。言っちゃっていいですかね。でも彼らは、真我は波動から成る存在である、という風にもまた決して言わなかった、というのがそれです。

確かに彼らは、私と同じようなことは言わなかった、すなわち、真我は波動もしくは無数の粒子の集合体ではなく単一で均一で一続きな存在である、みたいなことは言わなかった。しかしそれと同時に、真我は波動もしくは無数の粒子の集合体である、という風にもまた言わなかった、生涯ただの一度も。

要するに、こういうことです。前述のような当方の見解を仮に「真我単一の存在説」と呼ぶとするならば、彼らはその「真我単一の存在説」に組することは一度も言わなかった。が、それに反することもまた一度も言わなかった。

現在覚者とされている方々(覚者の方々、とはあえて申しません)が悟りや真我について語りはじめると、二言目か三言目には、やれ波動だ、粒子だ、量子場だ、最先端の物理学だ、といった話に向かいがちなのとは大違いだとは思われませんか。

いずれにしてもこのような次第で、彼らが残した説法録の中に、当方の真我観を肯定する材料は見いだせないものの、それを否定する材料もまた見いだせない、ということになるわけです。

真我は見る者(気づく者)である。が、感じる者ではない

当方の真我観の中で、これまで述べてきたことと同じぐらいの重要度を持つのが「真我は見る者(気づく者)である」という点です。
真我は見る者(気づく者)である、というのはより具体的に申せば、例えば我々が目にしているもの、耳にしているもの、我々の心に生じる思考、イメージ、感情、感覚・フィーリングといったものを見ている主体(それらに気づいている主体)が真我なのだ、ということですね。

で、真我が見ている対象の中に感覚(フィーリング=心の感じる働き)も含まれていることからもお察しいただけるかと思いますが、真我の見る働きと心の感じる働きは別物ということになります。すなわち、「真我で見る(気づく)」イコール「感じる」とはならないわけです。「真我は見る者(気づく者)である。が、感じる者ではない。」という、この節のタイトルはそこから来ています。

真我の見る働きが顕在化するのはどんな時か?

さて、その真我の見る働きというのは常に顕在化しているわけではありません。すなわち真我の見る働きには、顕在化している時と顕在化してない時があるのです。

真我によって見られる側の存在、すなわち例えば我々が目や耳にしているものなどに対して、我々が心を脇に置いて直面している時、真我の見る働きは顕在化しています。一方、それらに対して、我々が心を脇に置かずに直面している時、真我の見る働きは顕在化していません。

要するに、真我の見る働きが顕在化しているか否かは、我々が心を脇に置いてそれらに直面しているか、心を脇に置かずにそれらに直面しているかによって決まる、というわけです。

少し補足しておきますと、ここに言う「心を脇に置いて」は言い換えれば、「思考、イメージ、感覚といった心の働きを介在させずに」ということ、「心を脇に置かずに」は「思考、イメージ、感覚といった心の働きを介在させながら」ということです。

真我で何かを見ている状態の具体例

ここに言う「心を脇に置いて」の意味するものが、「思考やイメージのみならず感覚さえも介在させずに」というものであることを考えますと、我々の日常生活の中で、心を脇に置いて目や耳にしているものに直面することはそうざらにあるものではない、と言えます。一般的に人は、思考やイメージのみならず感覚(フィーリング)さえも介在させずに目や耳にしているものに直面している状態にはそう簡単にはなれないものだからです。

とはいえ我々は日常生活の中で、稀に不可抗力的にそういう状態になることがあります。例えば、全く予想してなかったタイミングで驚いてしまうような意外なものに出くわした時なども、そうです。そんな時我々は、その出くわしたものに心を脇に置いて直面している、というか、させられているものです。そんな時の我々というのは、直面している対象物に対して思考やイメージはもとより感覚(フィーリング)さえも挟む暇がないんですね。

例えばその時我々の出くわしたものが仮にゾウさんであったとしたら、心を脇に置いてゾウさんに直面している状態にその時の我々はなっています。で、既に分かっておられますように、その状態というのは真我の見る働きが顕在化している状態なのでもあります。言い換えれば、その状態というのは真我でゾウさんを見ている状態なのでもあります。

未悟者からすると「心を脇に置いてゾウさんに直面している状態」というのは、ただ単に肉眼にゾウさんが映っているだけの純粋に物理的な状態としか認識できないことでしょう。でも繰り返しになりますが、実はそれは、真我でゾウさんを見ている状態なのです。

ここでちょっと悟りのことに触れておきますと、そのことが頭や理屈じゃないところで明らかになるのは悟りが起こった時です。悟りが起こってはじめて、我々が目や耳にしているものを見ている真の主体・心を超えた真我の存在が明らかになるんですね。

考えることも感じることもせず対象物に直面する真我の体現者

「心を脇に置いて(思考もイメージも感じることも止めて)ゾウさんに直面している状態」イコール「真我でゾウさんを見ている状態」ということがイマイチ腑に落ちない、という方に申し上げておきましょう。

我々が心を脇に置いてゾウさんに直面している時、「感じる」というのとはまた違った意味において、ゾウさんの色や形を見ている何か(心とは別の何か)が、今のあなたには分からなくても信じられなくても確かにあるのです。それのことをここでは真我と呼んでいるわけです。

オショー・ラジニーシの講話録の中に、私のここまでの話の裏付けになるくだりがありますので、ご紹介しておきましょう。途中で「薔薇(バラ)」という言葉が出てきますが、私のここまでの話を読んでこられた方は「ゾウさん」という言葉に置き換えてみられたら分かりやすいかも知れません。

神秘家は考えもしなければ感じもしない。ただ薔薇の現存の中に止まるだけだ。……。

神秘家は薔薇の現存の中にただ止まる。行動もせず、考えることもせず、感じることもしない。心情(ハート)でもなければ頭でもない。彼はただ薔薇とともにいる。

出典:「信心銘(123ページ)」著者/ラジニーシ 訳者/スワミ・パリトーショ 発行所/(財)禅文化研究所

いかがでしょうか。オショー・ラジニーシの信奉者でさえも、「へえ、彼はそんなことを言っていたのか!」と思うような内容じゃないかなという気がします。というのも、意外なことに前述のような話を彼がするのは珍しいことだからです(私の見た限りではね)。

ちなみに、文中の「神秘家」という言葉が真我の体現者あるいは悟者を指していることは、前後の文脈に照らして間違いないと思います。

心を脇に置くための便法としての「呼吸を止める」という方法

先ほど申し上げたように、真我の見る働きが顕在化するのは心が脇に置かれた時であるとはいえ、一般的に我々にとって心を脇に置くことはそう簡単なことではありません。が、それが簡単にできるようになる方法が全くないわけではない、というのもまた事実です。

それが簡単にできるようになる方法って何? という声が聞こえてきそうですが、私の知る限りではそれに該当するものが少なくとも二つはあります。一つは当ブログの中でいずれ紹介する予定のあるメソッド、もう一つは「呼吸を止める」という方法です。

実際に呼吸を止めてみればお分りになるはずですが、我々が呼吸を止めている時心は脇に置かれています。そして、その時我々の目に映っているものが例えば花瓶であったとしたら、我々は心を脇に置いてその花瓶に直面している状態になっているものです。

で、先ほどの話からもお分りのように、この状態というのは真我で花瓶を見ている状態とイコールです。未悟者からしてみると、ただ単に目に花瓶が映ってるだけとしか認識され得ないその状態が実は、真我で花瓶を見ている状態とイコールなんですね。

その状態が未悟者には、ただ単に目に花瓶が映ってるだけとしか認識され得ないのは分かります。なぜならそれというのは言い換えれば、思考やイメージはもとより、感覚(感じること)さえも介在させずに、つまりあたかも心を持たないロボットのように花瓶を見るということでもあるわけですから。

しかし覚えておいてください。繰り返しになりますが、そんな中にあっても、「感じる」というのとはまた違った意味において花瓶の色や形を見ている心とは別の何者かが我々の中に(我々の背後に、というべきかな)存在しているのだ、ということを。その何者かが真我であることは言うまでもありません。

空間よりも大きい真我

さて、そんな真我の大きさは一体どれぐらいあるのでしょうか? この問いに対してここでハッキリ申し上げられるのは次の一言だけです。真我は少なくとも空間よりは大きい。
これについて説明しましょう。

前述のように我々が呼吸を止めている時心は脇に置かれているものですが、そんな時でも我々が空間の大きさを認識できるのは何故だと思われますか? それはもちろん我々が、心とは別の「真我という見る意識」で空間を見ているからに他なりません。

我々が呼吸を止め心を脇に置いてもなお空間の大きさを認識できるのは、心とは別の真我という見る意識でもって空間を見ているからなんですね。この真我という見る意識は、「空間を感じている」というのとはまた違う意味において「空間を見ている」わけです。

で、この真我という見る意識が空間よりも大きいと言えるのは何故かと申しますと、空間を見ることのできるものは空間よりも大きくなければならないからです。

空間を見ることのできる真我という見る意識は空間よりも大きくなければなりません。さもなければ、それは空間を見ることができません。空間よりも小さいものは空間を見ることができないのです。これが「真我は少なくとも空間よりは大きい」と言える理由です。

またまたオショー・ラジニーシの講話録からの引用になりますが、そのあたりの消息を彼は次のように説明しています。

・大空を見れば、その空は広大だ。だがそれを見る者、目撃者はもっと大きい。さもなくて、どうしてその空を見ることができよう。……。
見る者は見られる者より大きくなければならない。それしかありようはない。

・あなたは空間を見ることができる。あなたは時間を見ることができる。それなら、あなたの中にいるこの見る者は、その両方より大きいのだ。ひとたび光明を得れば、すべてはあなたの中にある。

出典:「信心銘(414ページ)」著者/ラジニーシ 訳者/スワミ・パリトーショ 発行所/(財)禅文化研究所

最後の「ひとたび光明を得れば……」というくだりはここでは蛇足であること、分かってはいるのですが、悟りへの途上にある方々の参考になればと思い、あえて付け加えさせてもらいました。ちなみにここに言う「光明を得れば」が「悟りに到れば」という意味であることは言うまでもありません。