真我とは何か?

2018-05-29

自慢と取られては困るのですが、当方の真我観は現在の(あくまでも現在のね)悟りシーンの中ではかなり異端だと思います。ここに言う真我観とは、真我とは何か? という問いに対する答えのことです。その問いに対する答えが私の場合、現在の悟りシーンの中では類似・共通するものを見つけ出すのが不可能に近いほど、異端なものなんですね。

開設されて間もないこのブログですが、今後このブログのペースの一つとなる前述のような当方の真我観に、果たしてあなたはどこまで付いてこれるでしょうか? 大いに気になるところではありますが、今はそれは横に置いておきましょう。

これからその、当方の真我観の概要をいくつかの箇条に分けてお話ししていこうと思います。

真我は体でも心でもない第三の何かである

真我とは何か? という問いに対する答えとしてまず最初に申し上げたいのは、それは体でも心でもないものだ、ということです。真我は、体でも心でもない第三の何かなんですね。 ここに言う心というのは顕在意識のみを指しているのではなく(そういう場合もありますが)、それも含めた最も広い意味における心のことです。

顕在意識の奥には個人の潜在意識があり、その奥には万人共通の潜在意識もしくは普遍的無意識があり、さらにその奥には宇宙的無意識と呼ばれる宇宙全体に広がる心の層があると言われておりますが、それら全てをひっくるめて、ここでは心と称しているわけです。

一般的には前出の宇宙的無意識、言い換えれば心の一番奥深い層を真我とする見方が定番ですが、体でも心でもない第三の何かを真我とする当方の真我観はあきらかに、それとは異なります。

そう言えば、心全体は一本の木になぞらえられることもありますね。心全体を仮に一本の桜の木だとしますと、顕在意識は個々の花、個人の潜在意識は枝、万人共通の潜在意識(普遍的無意識)は幹、宇宙的無意識は根、といったところでしょうか。まあ細かいことを言うなら、枝の中には個人の潜在意識と万人共通の潜在意識の中間に位置付けられるべきところもあるわけですが…。

心の各層を仮にそのように見立てた場合、当方の真我観では当然ながら桜の根を真我とは見なしません。根も含めた桜の木そのものを取り除いても、なおその後に残る何かを真我と見なしているのです。言い換えれば、我々から体はもとより心まで取り除いても、なおその後に残る何かを真我と見なしているわけです。

真我は表の領域でも裏の領域でもない第三の何かでもある

この宇宙には、五感(のいずれか)にかかる物質から成る領域と、五感にかからない波動から成る領域の二つがありますが、前者を「表の領域」、後者を「裏の領域」、という風に私は読んでおります。

ニューサイエンスなどで使われる「明在系」「暗在系」という言葉をご存じの方は、こうお考えください。「明在系」は前出の「表の領域」と同じか、ほぼ同じ。「暗在系」は前出の「裏の領域」と同じか、ほぼ同じ。

で、私の見方では真我は、「表の領域」でも「裏の領域」でもない第三の何か、ということになります。先ほど私は真我のことを体でも心でもない第三の何かであると申し上げましたが、見る角度によってはそのようにも言えるのです。

「裏の領域」を真我とする見方、でなければ「表の領域」と「裏の領域」をあわせたものを真我とする見方、皆さんが見聞きする真我観のほとんど全てはこの二つのうちのどちらかに当てはまると思います。その意味においても、前述のような当方の真我観というのはやはり、現在の悟りシーンの中では異端というか超少数派なんですね。

それにしても皆さん、私が真我としている、体でもなければ心でもなく、物質でもなければ波動でもないものの存在を信じることができますかね。何、信じられないですって……。じゃあ、とっととこの場から立ち去ってください! とは言えないところが辛い。

真我はたった一個の素粒子を無限大に大きくしたかのような存在である。

このように申し上げると、「じゃあ、物質でも波動でもない真我って、一体どのようなものなの?」という風に皆さんは思われるかも知れませんね。中々言語化しづらいのですが、強いて言語化してその問いにお答えするとしたら、こんな感じになるでしょうか。「たった一個の素粒子を無限大に大きくしたかのような存在」

波動というのは見方を変えれば無数の素粒子の集合体であると言われていますが、私の見解では真我は無数の素粒子の集合体というよりは、たった一個の素粒子を無限大に大きくしたかのような、単一で均一で一続きな何かってことになるのです。

非常に珍しいことなのですが、私のこの見解と同じことを言おうとしているように見受けられる、ある文言をある本の中で見つけました。それをここでご紹介しておきましょう。本のタイトルは「アイ・アム・ザット/私は在る  ニサルガダッタ・マハラジとの対話」というもので、その中の421ページに次のようなくだりがあります。

それは均質なひと塊なのだ。…………。源は単一であり、シンプルだ。

出典:「アイ・アム・ザット/私は在る  ニサルガダッタ・マハラジとの対話」翻訳/福間厳 発行所:(株)ナチュラルスピリット

上記の本を読まれた方ならお分りになるはずですが、ここに言う「それ」および「源」は前後の文脈から「真我」の言い換えであることが見て取れます。要するに、ニサルガダッタ・マハラジはこう言ってるわけです。真我は均質なひと塊(かたまり)であり、単一であり、シンブルである。

これが指し示しているものと、先ほどの私の見解が指し示しているものは同じだ、という風に私は見ているのですが、皆さんはどうでしょうか。私に同意していただけると、これほど嬉しいことはないのですが……。

何故って? それはですね、同じことでも一人の人間が言うのと、二人の人間が言うのとでは信ぴょう性に大きな違いが出るからなのです。UFOの目撃談に当てはめて考えてみれば、お分りになると思います。

でもここでは、私に同意していただけるか否かは皆さんにお任せするしかありませんね。