続・私たちが感じることのできない「今」

真我に帰るとは?

これも私の常套句の一つと言えるかも知れませんが、真我が存在している唯一の時間は今です。今が真我の唯一の在りかだと言うこともできるでしょう。従って私たちは、真我に帰るためには自分を今に持ってゆく必要があります。

が、真我に帰る前の自分とは心以外の何者でもないので、ここに言う「自分を今に持ってゆく」は言い換えれば「心を今に持ってゆく」ということに他なりません。

では、心を今に持ってゆくと心はどうなるかと言いますと、脇に引っ込みます。今と心は相性が悪いからです。そしてその後には真我だけが残ることにります。

このような次第で、私たちにとって真我に帰るということは、私と真我が根っこで繋がるとか、私の基盤が真我になるといったようなことを意味するのではなく、私が脇に引っ込み、真我がその脇に引っ込んだ私に取って代わった状態になることを意味するのです。選手交代みたいなものですね。。

私は真我に取って代わられることはできても、真我と接点を持つことはできないのです。真我と接点を持つためには、真我と自分という二つのものが「今という名の同じ場所」に存在していなければならないわけですから。

このあたりの消息は、心を今に持ってゆくための最速メソッドの呼び声も高い(らしい)『時間を止める三ステップ(グローバルメニューからご覧いただけます)』を実践済みの方であれば、お分かりいただけるのではないでしょうか。

感じた真我は過去のもの

さて、私が真我と接点を持つことは不可能だということになりますと当然ながら、私が真我それ自体を感じることもまた不可能であるという話になってしまいます。真我と接点を持つことのできない私にどうして、真我それ自体を感じることなどできるでしょうか。できっこありませんね。

しかしここが大事なところなのですが、私たちは真我それ自体、すなわち今あるリアルな真我を感じることはできなくても、過去に去った真我を心で振り返ることによって、過去の真我を感じることならできます。ただしここに言う「過去」とは、「一瞬前という名の微かな過去」のことですが。

私たちが感じることができるのは「今あるもの」ではなく「一瞬前にあったもの」だけであるというような話を前回の記事(“私たちが感じることのできない「今」”)でお話ししましたので、前回の記事内容を覚えておられる方には、私が前述したことを違和感なく受け入れてもらえると思います。

私たちは、今ある真我それ自体を感じることはできなくても、一瞬前の真我を心で振り返ることにより、一瞬前の真我を感じることならできるんですね。逆に言えば私たちにとって、「真我を感じる」と「一瞬前の真我を感じる」は常にイコールになるということでもあります。「真我を感じる」が「今あるリアルな真我を感じる」とイコールになることは絶対にないわけです。あなたに、その自覚がなくてもです。

悟りとは真我を感じることなのではない

ということで、先ほど真我に帰るにはどうしたらいいかという話をしましたが、真我に帰った後、私たちがそこにある真我を感じた瞬間に、もしくは感じようとした瞬間に、それまで脇に引っ込んでいた私(=心)が復活して前面に現れ、その結果として私たちたちは真我に帰った状態から引き離されるハメになります。

私たちにとって何かを感じたり感じようとしたりすることは、今ならぬ過去に心を趣かせることに他ならないからです。

しかしそれでも、真我を感じることそれ自体がいただけないことであるという風には私は決して思いません。私がいただけないと思うのは、「真我を感じること」イコール「悟ること」という誤解です。もしくは、「真我を感じることができた私」イコール「悟った人」、という誤解です。いかにもありがちな誤解ではないでしょうか。

この誤解さえなければ、どうぞお好きなだけ真我を感じてくださいな、それでいい気分になれるのであれば、と申し上げたいですね。

が、本当の悟り、すなわち「真我が真我自身を知覚するという不思議な転回」は、私たちが真我に帰ることができた後、真我を感じたり感じようとしたりしてない時にだけ向こうからやってくる可能性がある、ということも付け加えておきましょう。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

今回の記事が気に入られましたら
プチッと一押しお願いします。
↓↓↓