真我で見ること=“モノをありのままに見ること”の途方もなさ

真我の持つ側面たち

「過去断ちの法」に関する連載記事の最終回を数日前に書き終えたところですが、その連載記事の終わりの方でもお話ししましたように、 真我の持つ側面には次のようなものがあります。ちなみに⑦に関しましては言い回しを変えてあることを前もってお断りしておきます。

①今に在るという側面 / ②未来を見ないという側面(※①を細分化したもの) / ③過去を見ないという側面(※①を細分化したもの) / ④いかなるものにも依拠していない(いかなる支えも無しにある)という側面 / ⑤絶対的な無為の中にあるという側面 / ⑥私がその存在を認識しているものと一つになっているという側面 / ⑦視点の位置が「余剰次元」に在るという側面 / ⑧モノをありのままに見ているという側面(見る意識であるという側面)

※⑦における「余剰次元」とは物理学の世界で用いられている空間の広がりに関する概念で、ここでは縦・横・高さからなるこの三次元空間に対する「垂直」の奥行きを持つ空間を指します。

真我を顕在化させる方法たち

で、これまたおさらいになりますが私たちは理論的には、これら真我の持つ側面の中のどれか一つを体現することによって心を脇に置くことができ、その結果として真我を顕在化させることもまたできます。真我の顕在化を妨げている唯一のものは心だからです(※ここに言う心とは潜在意識の最奥部までも含めた最も広い意味における心のこと)。

ということは具体的に申せば、私たちは理論的には、次の中のどれか一つを実践することによって心を脇に置くことができ、その結果として真我を顕在化させることもまたできる、ということに他なりません。

(1)今に在ること

(2)未来を見ないこと

(3)過去を見ないこと

(4)いかなるものにも依拠しないこと(いかなる支えも無しにあること)

(5)絶対的な無為の中にあること

(6)私がその存在を認識しているものと一つになること

(7)視点の位置を「余剰次元」に在らしめること

(8)モノをありのままに見ること

前述のように私たちは理論的には、(1)~(8)の中のどれか一つを実践することによって心を脇に置くことができ、その結果として真我を顕在化させることもまたできるわけですが、この物言いに「理論的には」という但し書きが付く理由は、(1)~(8)の中には(7)のような実践不可能なものも含まれているからです。

不可分の関係にある(1)から(8)まで

さてここで、今の話に付け加えさせていただきたいのは次のことです。私たちは理論的には(1)~(8)の中のどれか一つを実践できると結果的に(1)~(8)の全てを実践できていることになる。(1)~(8)は全て不可分の関係にあるために、そういうことになるんですね。

これは別の言い方をすると、私たちは理論的には真我の持つ側面の中のどれか一つを体現できると結果的に真我の持つ全側面を体現できていることになる、ということでもあります。こういうのを「芋づる式」と言うのか、言わないのかはさておくとして、この話の通りだとしたら私たちにとってある意味便利だと言えます。

この話の通りだとしたら私たちは、(7)つまり“視点の位置を「余剰次元」に在らしめること”のような実践不可能かつ私たちの想像をすさまじく絶するようなものであっても、(1)~(8)の中からそれ以外のどれかを実践することによって結果的にそれを実践できたのと同じになるということですから。

“モノをありのままに見ること”を軽く見れない理由

しかし「この話」というのは裏を返せば、次のことを意味している点も見落としてはいけません。私たちが(1)~(8)の中から(7)以外のどれかを実践したとした場合、その結果として(7)も併せて実践できていなかったら、実践の仕方にどこか不備があったことになる。これについて、もう少し具体的にご説明しましょう。

ここでは(7)と近い関係にある(8)を例に出させてもらいますが、私たちが例えば(8)つまり“モノをありのままに見ること”を実践したとしましょうか。そうした場合、(8)の実践の仕方に不備がなければ当然の結果として(7)も併せて実践できていなければならないことになります。先ほどのロジックを当てはめると、(8)を実践するということは結果的には(1)から(8)までの全部を実践することとイコールになるはずだからです。

ということは逆に言えば、もしそこで結果的に(7)も併せて実践できていなかったとしたら、(8)の実践の仕方に不備があったと見なさざるを得ないわけです。

“モノをありのままに見ること”なんて言うと皆さんの中には、そんなに大したことではなさそうに感じておられた向きもあるかも知れません。が、ここまでの話からも明らかなように、本当の意味において“モノをありのままに見ること”の中には“視点の位置を「余剰次元」に在らしめること=(7)”も含まれているのです。

“モノをありのままに見ること”というのは本当はそれぐらい途方もないことなわけです。“視点の位置を「余剰次元」に在らしめること”の途方もなさはお分かりになるはずですが、それと同じ途方もなさが“モノをありのままに見ること”にはあるということですね。

それが分かればこれまでのように“モノをありのままに見ること”を軽く見ることはできなくなると思うのですが、いかがでしょうか。

“モノをありのままに見ること=(8)”に限らず、(1)~(8)の中にはそんなに大したことではなさそうに感じられるものがいくつかあったかも知れませんが、それらもまた本当は“視点の位置を「余剰次元」に在らしめること=(7)”と不可分の関係にあることを考えれば、これまでのように軽く見ることはできなくなるはずなのです。

中島タローでした。

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