真我の別名の一つは「感じることを意味しない未知の知覚」 /「過去断ちの法」 12

2019-04-30

真我の持つ「モノをありのままに見ているという側面」

今回新しく、真我の持つ側面の一つに付けくわえたいのは「モノをありのままに見ているという側面」です。「モノをありのままに見ているという側面」と言う代わりに「見る意識であるという側面」としても悪くはないのですが、こちらの場合その「見る意識」にはモノがどのように見えているのかまでは表現されていないという意味で不親切と言えば不親切だと思いました。こちらの方を採用しなかったのは、そのためです。

これまで取り上げてきた真我の持つ側面に前出のものをお仲間として加えると、真我の持つ側面には少なくとも次の八つがあることになります。

①今に在るという側面  ②未来を見ないという側面(※①を細分化したもの)  ③過去を見ないという側面(※①を細分化したもの)  ④いかなるものにも依拠していないという側面  ⑤絶対的な無為の中にあるという側面  ⑥私がその存在を認識しているものと一つになっているという側面  ⑦私がその存在を認識しているものに対して「垂直な方向」に在るという側面  ⑧モノをありのままに見ているという側面(見る意識であるという側面)

真我にはそういう側面もあるということの意味

さて“モノをありのままに見ているという側面”を真我が持っているということは理論的には、私たちはその側面を体現することによって、早い話が「モノを有りのままに見ること」によって心を脇に置くことができ、その結果として真我を顕在化させることもまたできるということに他なりません。

さらにそれは理論的には、私たちはその側面の体現を身体動作に組み込むことによって、つまり「身体動作を有りのままに見ながら身体動作をすること」によって、心を脇に置いた中での身体動作を実現することができ、その結果として真我発の身体動作を実現することもまたできるということでもあります。

この一連のロジックは、私のこれまでの話に付き合ってきてくださった皆さんであれば解説しなくてもお分かりになると思います。

身体動作も含めてモノを有りのままに見るとは?

が、私たちが「身体動作を有りのままに見ながら身体動作をすること」によって心を脇に置いた中での身体動作、言い換えれば真我発の身体動作を実現できるというこの話は、あくまでも理論的にはそうなりますよという話でありまして、実際にそれが「使える技法(とどこおりなく実践できる技法)」なのかどうかという点に関しては、実際にそれを実践してみるまでは未知数です。

が、「身体動作を有りのままに見ながら身体動作をすること」を実際に実践してみるためにはその前に、「身体動作を有りのままに見る」の意味を押さえておく必要がありますよね。

皆さんは「身体動作を有りのままに見る」の意味をご存じでしょうか。それを一言で申せば次のようになります。“考えること(思考)も感じることも脇に置いて身体動作を見る。”このように言える理由は、思考がモノを有りのままに見ることの妨げになるフィルターであるのと同じように、感じることもまたモノを有りのままに見ることの妨げになるフィルターに他ならないからです。

てことは、「モノを有りのままに見る」イコール「思考を脇に置いてモノを見る」と思っておられた方は真実の反面しかご存じなかったことになりますね。

もちろんこれら二つのフィルターの間には透明度の違いというものはあります。つまり、前者よりも後者の方が透明度が高い、あるいは後者よりも前者の方が透明度が低い、という違いはあります。しかし両方ともモノを有りのままに見ることの妨げになるフィルターであるという点ではお仲間なのです。

だからこそ「身体動作を有りのままに見る」ためには「両方」とも脇に置く必要があるわけです。

「身体動作を有りのままに見ながら身体動作をすること」の難しさ

さて、以上の話を聞いただけで皆さんは、「身体動作を有りのままに見ながら身体動作をすること」の難しさに思い至ることができたと思います。そう、本当は実際に実践してみるまでもなく、私が今申し上げたことを理解したなら誰でも「身体動作を有りのままに見ながら身体動作をすること」の難しさに思い至ることができるはずなんですね。

その意味では「身体動作を有りのままに見ながら身体動作をすること」というのは「使えない技法」とまでは言えないものの「使い辛い技法」であることは間違いありません。それが実践できれば心を脇に置いた中での身体動作、言い換えれば真我発の身体動作を実現することができるという先ほどの話は事実だとしてもです。

その難しさを乗り越える裏技でもある「過去断ちの法」

しかし私たちにとって幸いなのは、「身体動作を有りのままに見ながら身体動作をすること」そのものを直接的に実践しなくてももっと簡単に、「それ」を実践したのと同じ結果を得ることのできる道が残されていることです。どんな道かといいますと「過去断ちの法」を実践するという道です。

私たちは「過去断ちの法」という、「それ」よりもはるかに実践が容易な技法の実践によって、「それ」を実践したのと同じ結果を得ることができるのです。なぜなら「過去断ちの法」であれ「それ」であれ、真我発の身体動作の実現を目的とした技法というのは、どれを実践しても到達点は同じになるようにできているからです。

その意味では「過去断ちの法」以外の真我発身体動作法、例えば「方法無き方法」とかの実践によってもまた「それ」を実践したのと同じ結果が得られるという話になるわけですが、私がここで「過去断ちの法」をおススメする理由は二つあります。一つは「過去断ちの法」の実践の容易さ。もう一つは「それ」つまり「身体動作を有りのままに見ながら身体動作をすること」と「過去断ちの法」の類似性の高さです。

このようなわけで、「身体動作を有りのままに見ながら身体動作をすること」の意味を体験的事実として知りたいのであれば、そのこと自体ではなく「過去断ちの法」をこそ実践するべきだと言えます。

真我の別名の一つ「感じることを意味しない(未知の)知覚」

さて、ここに言う「過去断ちの法」が「既に終了し過去のものになった身体動作を心で振り返らないようにしながら身体動作をすること」であることは皆さんご存じの通りですが、それをしっかり念頭に置きつつ以下の話をお読みください。

私たちがその「過去断ちの法」を実践している時というのは、身体動作と自分の間に距離がなく両者が一つになっています。

すなわち「身体動作はアチラにあり自分はコチラにいる」という構図(心にのみ存在する虚構の構図)がそこには有りません。これは言い換えれば、身体動作と自分の間に思考や感覚(心の感じる働き)の介在する余地がないということでもあります。

では、私たちが「過去断ちの法」の逆を実践している時はどうでしょうか。“「過去断ちの法」の逆”とは「既に終了し過去のものになった身体動作を心で振り返りながら身体動作をすること」に他なりませんが、私たちがそれを実践している時というのは、身体動作と自分の間に距離があり両者が一つになっていません。

すなわち「身体動作はアチラにあり自分はコチラにいる」という構図(心にのみ存在する虚構の構図)がそこには有ります。これは言い換えれば、身体動作と自分の間に思考や感覚(心の感じる働き)の介在する余地があるということでもあります。

要するに身体動作の最中、既に終了し過去のものになった身体動作を心で振り返ると、身体動作と自分の間に思考や感覚の介在する余地が生じ、そうしなければ、身体動作と自分の間に思考や感覚の介在する余地が生じないということですね。

「過去断ちの法」実践時の私たちに身体動作に対する思考や感覚が無くなっているのはそういう背景があるからですが、ここで見落としてならないのは、「過去断ちの法」実践時の私たちは身体動作に対する思考や感覚が無くても身体動作を知覚することはちゃんとできている、という事実です。

実際にやってみればお分かりいただけるはずですが、「過去断ちの法」実践時の私たちというのは、身体動作に対する思考だけでなく感覚(心の感じる働き)さえも無い中で、身体動作を知覚することはちゃんとできているんですね。ここに言う「身体動作を知覚する」は「身体がどのように動いているのか知る」と言い換えても構いません。

で、身体動作に対する思考も感覚(心の感じる働き)も無い中で私たちにそれができているということは取りも直さず、私たちには「感じることを意味しない(未知の)知覚」があるということに他なりません。私たちには「感じることを意味しない(未知の)知覚」があるからこそ、そういうことができるわけです。

この「感じることを意味しない(未知の)知覚」こそは「真我=見る意識」の別名に他ならず、私たちが身体動作を有りのままに見ている時にはこれが働いているのです。

皆さんにはぜひ、このあたりの消息を「過去断ちの法」の実践を通して頭や理屈じゃないところで確かめていただきたいと思います。

※「過去断ちの法」に関する話は今回の話をもって終了となります。

中島タローでした。

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