瞑想系身体動作法(23)「過去断ちの法」Ⅺ



今回お話しするのは、私が理解していることの中で最も文章化するのが難しい事柄だと思っています。そのためきちんと伝えられるかどうか分かりませんが、そうできるように最善は尽くさせていただきますので、きちんと伝わらなかった場合はなにとぞ御寛恕のほどよろしくお願いいたします。

内容的には記事のタイトルに反して「過去断ちの法」とは関係のないものになっているのですが、前回の話がこれからお話ししようとしていることのベースになっていることから、あえてこの記事を使って発表させてもらうことにいたしました。それでは本題に入ります。

真我の持つあの二つの側面

さて、前回は以下のような真我の持つ二つの側面に焦点を当てましたが、今回も引き続きこれらに焦点を当ててみたいと思います。

Ⅰ・私がその存在を認識しているものと一つになっているという側面

Ⅱ・私がその存在を認識しているものに対して「垂直な方向」に在るという側面

これらのフレーズで使われている「私がその存在を認識しているもの」とは前回も同じようなことを申し上げましたが、「それがそこに在ることが私に分かっているもの」のことでありまして具体的には、私の五感にキャッチされるものとか私の心に生じる思考・感情・感覚とか私の身体や身体動作などを指します。

もっと言えば、それらよりやや抽象度が高くなりますが、「自分が今置かれている状況」というものも、それらのお仲間に加えることができます。「自分が今置かれている状況」というものもまた、「私がその存在を認識しているもの」の一つであることに違いはないからです。

従って前出のⅠとⅡは、意味の幅を大きく狭めることにはなりますが、次のように言い換えることも可能です。

①自分が今置かれている状況と一つになっているという側面

②自分が今置かれている状況に対して「垂直な方向」に在るという側面

真我の持つ側面には直接的に体現できるものとできないものがある

お察しのように、私たちは①を直接的に体現することはできますが②を直接的に体現することはできません。②のような、ある意味訳の分からないものをどうして直接的に体現することなどできるでしょうか。

ちなみに①を体現するということは具体的には、“自分が今置かれている状況と一つになること”を言い、②を体現するということは具体的には、“自分が今置かれている状況に対して「垂直な方向」に在ること”を言います。

やっぱりどう見ても私たちには、①と違って②というのは直接的に体現することなどできっこないことがお分かりいただけると思います。

一つが体現されるとそれ以外も体現される真我の持つ側面

しかし私たちは間接的にであれば、②を体現することができます。なぜなら私たちが①を体現すると、その結果としてたくまずして②も体現されるようになっているからです。①の体現には必ず②の体現が金魚のフンみたいに、じゃなくて付録のように付いてくるものなんですね。

その前提というか背景にあるのは、真我の持つ側面の中のどれか一つを体現することは真我の持つ全側面を体現することに繋がっているという事実です。

さて、それにしても私たちにとって、①と②を同時に体現することは矛盾と言えば矛盾です。そのように言える理由は、②を体現するということの意味合いを掘り下げてみれば分かります。それについてご説明しましょう。

②を体現するということは前述のように、“自分が今置かれている状況に対して「垂直な方向」に在ること”ですが、これは、“自分が今置かれている状況の外側に在ること”と言い換えられないこともありません。

“自分が今置かれている状況に対して「垂直な方向」に在ること”というのはその意味合いを突き詰めて考えると、“自分が今置かれている状況の外側に在ること”とイコールだとも言えるんですね。

なぜならここに言う「垂直な方向」とは、私たちが体験する様々な状況の起こる場所すなわち三次元空間の外側のことに他ならないからです。

このように②を体現することには“自分が今置かれている状況の外側に在ること”という含みもあり、それを考えると、“自分が今置かれている状況と一つになること”を意味する①の体現と、その②の体現とは矛盾した関係にあると言わざるを得ないわけです。簡単に図式化すると片方は「あるものの外側に在ること」、もう片方は「それと一つになること」でありますから。

しかし、先ほどの話の繰り返しになりますが私たちは、①を体現することによって結果的に、①の体現とは矛盾した関係にあるはずの②の体現をも同時にクリアすることができます。

言い換えれば私たちは、自分が今置かれている状況と一つになることによって結果的に、それの外側に在ることができるようにもなる、ということですね。三次元空間の内側にあるものしか扱えない私たちの頭では理解不可能な話ではありますけれども。

ちなみにここに言う「それの外側に在ることができる」は、物理的現実的に「それの外側に在ることができる」という意味ではなく、私たちの内的な境地において「それの外側に在ることができる」という意味なので、そこはお間違えなきようお願いします。

公案

話は変わりますが、私がここまで述べてきたことと繋がりがあると思われる公案(禅のなぞなぞ)がありますので、それをこれからご紹介したいと思います。本質を損ねない程度に少しアレンジさせてもらいましたが、それは次のようなものです。

深さが千尺もある井戸に落ちた時、一寸の縄も用いずに井戸から出るにはどうしたらよいか?

 

さあ皆さん、「深さが千尺もある井戸に落ちた時、一寸の縄も用いずに井戸から出るにはどうしたらよいか?」というこの公案をどのように解かれるでしょうか。自分が実際にその井戸に落ちてしまったと想定しながら、この公案に取り組んでいただければと思います。答えはあえて申し上げません。

ヒントをくれ! ですって……。ヒントは私がここまでお話ししてきたことすべて、と言いたいところですが強いてヒントを出すとしたら次のようなものになります。

この公案が要求しているのは「物理的現実的な井戸から出る方法」ではなく「内的な境地における井戸から出る方法」です。ここに言う「井戸」が公案の中に出てくる象徴的表現としての「井戸」であることからも、そのことは明らかでしょう。

ちなみに、これもヒントの一つになろうかと思いますが、悟りを開かれた日本の禅僧の一人である故・秋月 龍珉(あきづき りょうみん)師はこの公案に関して次のような言葉を残しておられます。

何も強いて井戸から“出る”ことだけが能ではない。井戸の中でアップアップ言いながら、そこに見事に井戸を“出ている”仔細がある。

引用元:『禅入門』著者/秋月 龍珉 発行所/(株)新潮社 151ページから

うーん、素晴らしい!

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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